クリスチャンの政治関与反対論者は議論に飛躍がある


よく「イスラム原理主義を見なさい。宗教を政治に持ち込むとろくなことがない。だから、クリスチャンは政治にはタッチしてはならない。」という議論を聞く。

この議論にはいくつかの飛躍がある。

(1)
イスラム原理主義が悪を行うから、キリスト教ファンダメンタリストも悪を行うという論法はおかしい。

原理主義やファンダメンタリズムを「教典の教えや宗教原理を忠実にあらゆる領域に適用する立場」と定義すると、ある宗教の原理をあらゆる領域に適用することが、別の宗教の原理をあらゆる領域に適用することの否定にはつながらない。

なぜならば、宗教はそれぞれ教えの内容が異なるから。

オウムのカルマという殺人の教えを適用することによって殺人が行われたことをもって、仏教全体の教えを危険視することはできないのと同じことが、ファンダメンタリズムについても言える。

(2)
宗教は世界観である。ヒューマニズムも世界観である。

どちらも同じ領域を扱う。

どちらも、世界について、神について、人間について、倫理について、存在について、認識論について独自の考えを持っている。

だから、今日の世界を支配しているヒューマニズムも宗教であり、キリスト教や仏教などのライバルである。

ということは、「宗教は政治に口出しするな」ということをヒューマニズムにも適用しなければならないので、ファンダメンタリズムや原理主義を批判する人々は、もはや自分の考えに基づいて政治を行うことができなくなる。

(3)
「政治は汚い。我々は汚れから逃れるように命令されているのであって、それを清める必要などない」というディスペンセーショナリズムの論理は間違っている。

この世界のどこに聖い領域などあるだろうか。教会だって汚れている。

人間が堕落している以上、あらゆる領域が汚れることを避けることはできない。

たしかに政治は汚い仕事である。しかし、商売だって汚い。クリスチャンは商売してはならないのだろうか。

商売はノンクリスチャンに任せるべきだというのだろうか。

ディスペンセーショナリズムに基づいてこう考えていくと、クリスチャンは、この世界で完全に「浮き草」になる。

政治や商売など実質的な仕事をすべて他人に任せて、天のお迎えをひたすら待ち望む。こんな人間は、仕事もせずに親に依存してぐーたらしている「ひきこもり」と同じである。

おそらくクリスチャンがここ200年の間に完全なひきこもり状態になった原因は、普通のひきこもりと同じように、「責任を負いたくない」という心理にあるのだろう。

つまり、タラントを与えられたが、それを有効活用せずに、土の中に埋めてしまっておいた悪い僕の心理だろう。

こういった不作為の人生には、必ず神の裁きが下るだろう。

(4)
我々は仕事をするために生まれてきた。救われるために生まれてきたのではない。

救いとは、神のために働けるようになるためである。

救われた人は、世界を支配しなければならない。

神の御心の領域が拡大されることを願い、そのために一生をかけて努力しなければならない。

この使命を捨てるならば、その人は完全に役立たずであり、相続不能者である。

御国に入れると思ったら大間違いである。

 

 

2007年5月25日

 

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