教理を聖書から作り上げよう2


私が今のキリスト教を信じられないのは、リベラルにしても、ディスペンセーショナリズムにしても、聖書に全的に依存しないからだ。

どちらも、権威を世俗においている。学的権威を世俗の学会などにおいている。世俗の学問の発見や研究成果に依存している。

それに基づいて聖書への信仰の程度が変化する。

これじゃあだめだ。

世俗の学問が何を言おうが関係ないのだ。聖書は聖書。

もし世俗の学問が聖書と矛盾する発見なり研究なりを行っても、無視しなければならない。

「え〜、それじゃあ、クリスチャンは自己満足野郎になりますよ!」というだろうか。

いいですか。聖書は神の言葉なんですよ。神の言葉が世俗の学問の発展によって影響を受けるなんておかしいと思いませんか?

学問を超越したところに神の言葉はある、と信じるのが当然じゃないですか?

じゃなければ、それは神の言葉ではない。神の言葉が相対であれば、神も相対だ。そんな神、信じるに値しない。相対の神など神ではない。聖書自身、聖書の不滅性を証言している。


草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(イザヤ40・8)

我々は次のことを再確認しなければならない。

聖書の世界は、この我々の相対の世界とはまったく異なる。
聖書の世界は、絶対であり、相対の世界を超越している。

聖書の世界をも相対化して、神やキリストを人間のレベルに引きずりおろそうとしてきたのが、近現代ヒューマニズムだ。

これこそサタンの騙し。これまでリベラルやディスペンセーショナリズムを選択した教会は、サタンに騙されてきた。

我々は、この相対化の嵐をくぐりぬけて、聖書を不可侵の神聖なる書物として扱い、それに基づいて教理を形成しなければならない。

 

 

2009年8月22日

 

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