門は契約を象徴する


エデンの園は、城壁都市であった。なぜならば、門番がいたと書いてあるから。

堕落して追放されたアダムとエバが入れないように、回る燃える剣が置かれた。

キリストを信じるときに我々は、原初の人間の状態に帰ることができる。我々は神との交わりを回復し、再びエデンの園に入ることを許される。

つまり、城壁のある都市に住むことができる。黙示録において、クリスチャンは新しいエルサレムに住むことが許される。

城壁の中にいるので、我々は、悪い者から守られる。

それゆえ、門は契約に入ることを意味する。

城塞都市では、門のところに長老がいて入る人間を審査した。

神社の鳥居は非常に面白い名称である。鳥が居て、入る人間をチェックする。契約に相応しい人間かどうかを試す。

契約に相応しい人間だけが神を拝むことができる。相応しくなければ入り口でシャットアウトされる。

教会において門にあたるものは、聖餐式である。

契約に相応しくない人にパンとぶどう酒を与えない。

もし聖餐式が乱れて誰にでも与えるようになると、神は教会を裁かれる。

人々の健康が損なわれ、死者も出るようになる。パウロはコリントの教会が聖餐式をいいかげんにやっていたため病人や死人が増えたと語った。

キリストの契約には、信仰があり、キリストの主権を認め、法を守ろうとする人間、守れなかった場合に悔い改める用意がある謙遜な人間しか入れない。

茶道とキリシタンの関係がよく言われる。狭い入り口から茶室に入るのは身を低くできない人は契約にふさわしくないということを象徴しているのだろう。茶とお菓子は、聖餐のぶどう酒とパンに対応する。

結婚は契約である。性行為は同じようにこの契約を象徴する。だから、人間を選ばずに交渉するフリーセックスは異教的行為であり、契約を破壊する行為である。だから、姦淫は、聖書の根本的な原理と矛盾し、それに違反する行為なので、必ず裁きが伴う。

 

 

2008年4月27日

 

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