法的成就と実際的成就の区別


フルプレテリズムが提示している問題は重要である。そして、彼らの解釈は、重要なポイントを突いている。

たしかに、聖書を読むと、記者は「紀元70年の神殿崩壊を天地の崩壊として描いており、そこで古い天地は滅び、新しい天地が到来する」と考えていたことが分かる。

終末聖書預言のほとんどすべてがこの70年に向けて記されている。

もし紀元70年ですべてが終わり、まったく新しい世界が到来したとする聖書記者の主張を受け取るならば、2つの疑問が起こる。

(1)すべてサタンや悪霊などとの戦いは終わったのか。
(2)大宣教命令はすでに成就したならば、もはや我々は伝道する意味がないのか。

フルプレテリズムはこれに対して有効な解答を与えられない。フルプレテリズムに従えば、この2つにイエスといわざるをえない。

逆に、プレ・ミレのように、「終末預言はまだ何も成就していない」と考えると、無数の矛盾が湧き上がる。

もしキリストの王国が未来にしか登場しないとしたら、イエスが「私はすでに世を征服した」という宣言、「私は天地において一切の権威を与えられた」との王権告知はいったい何だったのか、ということになる。

正しい解釈はパーシャルプレテリズムである。

パーシャルプレテリズムは、「キリストは世界を征服した。」と宣言する。しかし、フルプレテリズムのように「もはやすべて完了した」とは宣言しない。

パーシャルプレテリズムは、「キリストは法的に世界を征服したが、実際的には征服していない。それは征服の過程にある。」と言う。

クリスチャンが伝道と弟子作りによって、世界の諸民族をクリスチャンにする過程で、世界は「キリストの王国」らしくなっていく。

http://www.millnm.net/qanda3/fulptable.jpg

 

 

2007年1月17日

 

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