正しい異言とはどのようなものか?


<Q>
それでは、本当の正しい異言とはどのようなものですか?

<A>
異言がペンテコステにおいて出てきたのは、「バベルの塔の呪い」が解かれたからです。

神は、人間が神抜きで合同することを嫌い、言葉を乱されました。

しかし、教会が生まれ、聖霊によってクリスチャンが合同し、一つの体、霊になることは、神の御心なので、もはや言葉の分裂は不要です。

自分の国の言葉ではない言葉で話すことができるようになったのは、聖霊によってどの国の人でも一体であるからです。異言はその一体を象徴しています。

だから、異言は、何かオカルトのような特殊な霊的現象のようなもの、信仰の深さ、高さを示す尺度のようなものではない。

異言は、パウロが言うように、「賜物」なのです。

クリスチャンの契約的合一を象徴するために召されている賜物を持つ人々は異言を話せばよい。

しかし、そこには、当然のことながら品位と秩序があるはずです。

なぜならば、人間はクリスチャンになることによって「神の似姿」「キリストの身丈に達する」ようになるからです。

話の内容と無関係な笑いとか、動物の鳴き声とか、もしそれが本当に聖霊の表れであるならば、聖霊とは「人間を人間以下にするのか」ということになります。

それって、「神から与えられた知性に対する裏切り」です。

人間には知的能力という驚くべき賜物が与えられている。

そういったものを破壊するような表現はどこかおかしい。

 

 

2010年6月18日

 

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