新しい時代の政治と聖書2


> 1 インターネットでいくつか覗いてみましたが
>
> まず、古いサイトで、Westcott & Hort vs. Textus Receptus: Which is Superior?
> http://www.bible-researcher.com/kutilek1.html
> 本文批評の歴史と「識者」のコメントがざっと掲載されていましたが、結局「エ
> ラスムスもウェストコット/ホートも絶対者ではないから、どちらのテキストも
> 絶対ではない。キリスト教教理は、アレキサンドリアもビザンチンのどちらにも
> きちんと含まれているからどちらも『正典』だ」となっています。

 聖書は、原典が霊感されているのであって、写本が霊感されているわけではありません。ですから、どの写本を選択しても、絶対はありえない。そして、それを編纂してギリシャ語聖書を作る場合でも、人間の選択が入るわけですから、絶対はありえません。

 神はどうして原典を残されなかったのか、とたずねる人がいますが、それが神様のやり方であると思います。
 偶像礼拝にいたる可能性のある誘惑を取り除かれたということではないかと思います。
 仏教では、釈迦の骨が崇拝の対象になっている。
 人間とはこのように偶像礼拝に流れやすいものです。
 
 このように我々は絶対を求められない。しかし、この世界にはサタンが働いていて、正典を毀損しようとする勢力があることは事実です。もし無数の箇所において相違点が互いにある写本どうしを比べて、「どちらでもいいのだ」というなら、「キリストだってサタンだって同じだ」というようなもので、あまりにも粗雑な判断ということになると思います。サタンはこういういい加減さが好きです。


> 何とかの一つ覚えで恐縮なのですが、例えば第一ヨハネ5:7がばっさりとカット
> された状態で正当な三位一体論を説けるのでしょうか。
> 「キリスト」が削除されたテキストでキリスト論を論じられるのでしょうか。
> 「霊においても信者の模範となれ」が削除されているから、異端や問題行動に走
> る教役者が後を絶たないのではないか。
> NASB/新改訳のプレ・ミレ翻訳を金科玉条にしているから、いつまでたってもポ
> スト・ミレに対して目くらまし・・・
> 聖書のテキストがいい加減では、教理も神学もどんどんいい加減になっていくと
> 思うのですが如何でしょうか。

そのとおりです。
マジョリティ・テキストとアレキサンドリア・テキストの2つのいずれも正典だと呼ぶには、あまりにも相違点が多すぎます。しかも三位一体という中心教理について、違いが大きすぎる。
看過できません。

> 何とかならないものか・・・祈っております。
>
> 最近のでは、 The Nicene Council   http://www.nicenecouncil.com/  は
> 興味深いです。
> Kenneth Gentryあたりが中心のようですが、ディスペンセーショナリズム、ハイ
> パープレテリズム、オーバン・アヴェニュー神学に対する批判論文が多数掲載さ
> れています。本腰を入れて読むまでに至っておりませんが、GentryやNorthは、
> 正道を歩んでいるようで安心しました。

ケネス・ジェントリーやゲイリー・ノースは、ポスト・ミレのパーシャルプレテリズム、セオノミー、契約神学、前提主義という点を固持しているので、私たちと同じです。

しかし、残念なことに、ラッシュドゥーニー没後、かつて再建主義だった様々な人が異なる教えに走り、せっかく進んだ道を引き返している状況があります。

 

 

2009年9月7日

 

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