ディスペンセーション主義の本質はサタン教である2


ディスペンセーショナリズムの人々と話していつも感じるのは、「この人たちは正統性を尊重しているのだろうか?」ということである。

彼らは、「予定論を唱えるカルヴァン主義者が、私にこう言った。『運転する際に保険をかけるべきではない。なぜならば、すべては主の計画だから。』と。」というような愚にもつかない例話を出して予定論を小馬鹿にする。

予定論とは、「未来はすべて決定しているのだから、危険を予防する必要はない」などということを「まったく」述べていない。

彼らはきちんとした予定論を学んでおらず、誤解に基づいて反論しており、非常に不誠実である。

これは傲慢な心から生まれる。

謙遜な人は、正統的なキリスト教教義を馬鹿にしない。

予定論などの正統的なキリスト教教義は、「正統的」という名前に値する内容を「常に」備えている。

歴史的な試練を乗り越えて古典とされているものに対して、我々は敬意を払うべきである。

しかし、ディスペンセーショナリストは、きちんとこれらの叡智について勉強をせず、ただ人からまた聞きした批判をオウム返しするだけだ。

彼らは、ものみの塔の宣伝員と同様で、キリスト教について本当に自分の頭で真剣に考えていない。これは、組織や集団に依存している人間の特徴である。

ディスペンセーショナリズムは、クリスチャンの地上統治の義務を回避し、「天国行きの切符」という利益だけを受け取ろうとする虫のよい「相続不可能な」人々の夢想の産物である。

まじめな人間は、こういった教義にからめ取られない。

 

 

2007年5月16日

 

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