司法律法を無効化する人間は裁きを免れない2


フルプレテリズムは、今日現れた新たな異端である。

なぜならば、それは、次のような論理を持っているから。


聖書は、「天地が滅びない限り、律法の一点一画たりとも地に落ちることはない」と述べている。
しかし、紀元70年に「天地は滅びた」と聖書が述べているのだから、紀元70年以降、律法は廃棄されたと考えてもよい。

読者のみなさん。

このような論理が通用するならば、次のように考えてもおかしくないということにどうか気づいていただきたい。

紀元70年以降は律法が廃棄されたのだから、救いは、イエス・キリストによらなくても達成される。なぜならば、自分を罪に定めるものが何もなくなったから。

「イエス・キリストによらずとも救いを得られる。」
これこそ異端でなくて何だろうか。

ディスペンセーショナリズムを含め、律法の一部でも廃棄されたと考える教えは、全体的であれ部分的であれ、「イエス・キリストによらない救い」を提供しているので、異端なのだ。

イエス・キリストは、我々の全存在、我々の活動の全領域に関する救済者である。

これは、「天地にある一切のものはわたしのもの」と宣言される神の拒絶である。

神の主権を制限する教えはすべて異端である。

「イエスの主権を拒否する」者は、クリスチャンではなく、聖霊を受けている者ではない。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ10・9)

「司法律法は、今日無効である」とか、「紀元70年以降律法は廃棄された」とか説く人間は、実質的に「イエスを主と告白していない」のであるから、「救われて」はいない。

聖書のどのような一部であっても、無効化できる箇所は存在しない。

だから、リベラルやバルトだけではなく、ディスペンセーショナリズムやフルプレテリズムに汚染された教会にも救いはない。

 

 

2007年8月24日

 

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