改憲論議で浮き彫りになった「一と多」の問題3


「多くの国民は、実は自由から逃れたいとひそかに思っている。この国の国民はこういう風にものを考えれば幸せになれるということを、おおまかに規定してほしいというのは、潜在的にマジョリティーの国民が持っている願望ではないか」(同、熊代昭彦氏)

これはするどい洞察である。
大多数の人間は、「指導を必要としている」。
思想とか理念とかについて思索している人々に指示してもらう必要がある。
良い国を作るには、賢い指導者が必要である。
今憲法を改正しようとしている人々は、キリスト教の背景を持たないから、この人々が憲法を作れば「一」か「多」のどちらかに偏ったものしか提供できない。

「日本は八百万の神を大事にして、それを憲法に盛り込むべきだ」なんて、知恵のない指導者に国の基本法を作らせれば大変なことになる。

繰り返すが、多神教は、全体主義への入り口である。多神教は、権力の並立を主張するから統一に正当性を与えることができない。しかし、実際に国の体裁を取るためには統一が必要だから、これらの多数の主権者をまとめるには、「原理に反して」一致をもたらす権力を据える以外にはない。

この場合、多神教の国において、一致そのものが違法なのだから、統一的権力を制限する規則は存在しない。

毛沢東は「神とは中国人民のことである」と主張したが、実際には中国人民は国家の奴隷になった。超越者を排除し、超越的な道徳を排除した結果、国家がやれないことはなくなった。

国は、個人の思想、信条にまで立ち入って、何を考えるべきかを事細かに指導した。国民は、政府がその時々に述べる意見に振り回され、つい先ほどまで指導者として崇められていた人間が、公衆の中でつる仕上げを食らうということになった。人々は、為政者が変わるごとに自分の意見をコロコロと変えざるをえなかった。

「多」を主張するならば、「一」は違法である。しかし、「一」は必要だから、違法にも「一」を立てる以外にはない。そうすると、「一」の権力そのものが違法なので、「一」はヤクザ者であることを非難されない。多神教を国の基本原理に据えるならば、国家の暴走を留めることは不可能になるのだ。

国の基本法は非常に大きな影響を非常に長期間にわたって与えるものである。このような重要な役割を担う人間がこのレベルでは、日本の将来は途方もなく暗い。

 

 

2004年4月30日

 

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