あらゆる領域を聖書によって再解釈すべし


(1)
今の世界の土台は、カントの作った人間教という新興宗教である。

我々は、偽りの教育によって、この人間教が中立であり、公平であると教えられてきたが、実は偏っている。

この人間教は、「人間は、聖書啓示なしでも世界を正しく認識できる」という信仰に基づいている。

これはあくまでも信仰であって、客観的な証拠はない。

よく「神や霊、死後の世界を信じるなんて、非科学的だ」という人がいるが、まったくわかっていない。

人間教において、科学とは、現象の世界について知るための方法であって、叡智の世界については何も言えない。

この限界をするどく認識させたのはイギリスの経験論である。この経験論が提示した認識の限界を意識しながらカントは世界観を構築したので、本質的に、人間教では「神や霊、死後の世界については人間は何も分からない」と考える。

しかし、それだけでは人間は満足できない。倫理についてはどうか、とたずねる人々に対してカントは、こう述べた。

「不可知な領域については、人間が勝手に構築することができる」と。

つまり、「現象の世界については科学によって知ることができ、証拠もあるが、叡智界のような不可知な領域については、科学では知りえない。それならば、我々は満足できないので、人間が定義したもので補おう」と。

人間は、神や霊、死後の世界などを、「人間にとって意味のある限りにおいて有効」と決めた。

人間が人間のためにのみ勝手に世界を解釈したものだけを受け入れるということになった。

だから、カント以降、「倫理は人間が決定する」ということになった。

すべてが人間を中心に回る世界観、これが現代人が信じる宗教である。

そして、我々はあたかもそれが証明された事実であるかのように学校で教えられてきた。

しかし、これは証明なんかされていないのだ。あくまでも主観であり、循環論でしかない。

(2)
カント以降、世界のあらゆる領域が、この思想によって再解釈されてきた。

人間は神に代わって世界を再組織化できるという前提ですべてのことが認識されている。

我々、クリスチャンすらも、学校教育を通じてこの新興宗教を叩き込まれてきた。

だから、本当に偶像礼拝から解放されるには、この新興宗教の成り立ちや内容を理解していなければならない。

クリスチャンの中にも一生懸命ノンクリスチャンに神を証明しようとする人がいる。

聖書を理性によって再解釈するという試みも行われてきた。

しかし、大前提が間違っているから結果も間違う。

「人間から出発し、人間に帰る」というこの新興宗教の原理から我々は完全に解放されなければならない。

そのためには、人間という被造物でしかないものは認識の土台にならない、ということを理解すべきだ。

我々の認識の土台は聖書である。

「聖書から出発し、聖書に帰る」という原理を回復しなければならない。

万物の解釈を人間中心にではなく、創造主中心に変換しなければならない。

あらゆる領域の事柄を聖書によって解釈し直すことである。

政治・経済・文化あらゆる領域を聖書によって再解釈することこそ我々の目的としなければならない。

 

 

2009年3月21日

 

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