家族は一人である


聖書において、家族は一体であり、一人の人間である。

家族は、存在論的には多数であるが、契約的に一人である。

契約的に一人であることを象徴するのが、(1)夫婦生活と(2)食事、(3)遺伝である。

(1)夫婦は性交渉において契約的に一人であることを示す。

(2)聖書において食事とは、一体を示す儀式である。聖餐式はキリストと同じ食卓につくことによって、キリストと教会が一体であることを象徴する。

家族は食卓をともにすることによって、一体であることを示す。

(3)子供は両親の遺伝子を受け継ぐ。

神が遺伝のシステムを作られたのは、子供は両親と無関係ではなく、深いつながりがあることを啓示されるためである。

だから、今日幼児洗礼を拒否する「個人主義」はまったくの間違いであり、クリスチャンはこのような考えを退けるべきだ。

家族は一体であり、それゆえ、救いも一体として受ける。

子供が生まれたならば、夫婦の信仰のゆえに、その子供も救いの中に入る。

そのことを象徴するのが幼児洗礼である。

だから、子供には、幼児洗礼を授けるべきであり、さらに、聖餐式にもあずからせるべきだ。

幼児洗礼だけ受けさせて、聖餐式を拒否する教会があるが、片手落ちである。

聖餐式を拒否することは、「あなたは救いの中にいません。滅びます」と宣言していることと同じだ。

だから、子供に聖餐を受けさせない親は子供をのろっているとすらいえる。

家族は家長をトップとする共同体であり、神の目から見てそれは一人である。

だから、教会は個々人の人格を尊重するだけではなく、家族を一人として扱うべきだ。

 

 

2009年5月20日

 

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