小さな政府を作るためには


(1)
国会で竹中大臣が、「小さな政府を目指す」と述べた。

人々はだんだんと、小さな政府を目指す以外にないと気付きはじめている。

しかし残念なことに官僚は、左翼エリート主義者であり、いまだにエリートが指導しない限り社会はまともに動かないと信じている。

ここに日本だけではなく世界の悲劇がある。

つまり、全世界において、国を動かしているトップの人間が完全にはマルクス主義から脱していないということだ。

税金という形で財を国に集中して、エリートが分配することによってうまく資本が再配分され、平等な社会が実現する、という社会主義の考え方を捨てられない。

クリスチャンまでもがこのようなシステムを擁護している。

ある人は、「だって、初代教会は持ち物を自分のものと言わず分け合っていたじゃあないですか。」と言う。

違う。あれは強制的に集めたのではない。

ペテロはアナニヤに対してこう言っている。

「それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。」(使徒5・4)

つまり、彼らの共同体は、「自由意志によって」ものを集めて分配したのだ。

それに対してマルクス主義は、所有を国家にのみ許し、個人から財産を奪い去る。

個人の創意工夫とか、イニシヤチブを軽視するこのような考えかたを適用すると、国家は間違いなく衰退する。

官僚は、従来の考え方を捨てるべきだ。

税金を総額10%未満に落とし、一般の市民に財産を返し、彼らのイニシアチブに任せなさい。「国がまとめなきゃ、各自勝って気ままにやって統制が取れなくなる・・・」なんて考え方やめなさい。

この世界は、人間が統制できるほど単純なものじゃない。

(2)
個人が金をもうけたり、財産を残したりするのは本能である。

その動機によって経済活動が成り立っているのに、それを否定したら、国が立ち行かなくなるのは当然だ。

それに、人間の所有権は、神の似姿である人間の生来の権利(つまり、神が所有者であるので、人間も所有者である)であるのと同時に、人間の個人財産は、神から託された投資金であるという聖書の教えによって保証されている。

つまり、神は人間に時間と資本を預けて、「これを用いて私のために有用な仕事をし、何倍にもして返しなさい」と命令されたのだ。

我々は生まれながらに、会社の経営者のようなものだ。

経営者が株主に対して責任があるのと同じように、我々に時間と才能、教育などを与えられた神に対して我々は責任がある。

自殺とは、この責任の放棄である。

我々は死ぬまでの間、神のために有益な仕事をして、自分に与えられた分に応じて儲けを出さなければならない。

我々が生まれたときよりも、死ぬときのほうが、日本において(少なくとも我々の周りだけでも)御国が進展していなければならない。

私有財産はすべて御国を進展させるための手段なので、国は個人から10%以上の額を徴税してはならない。10%以上を徴収する国家は、神の御国を妨害する反キリスト国家であり、早晩裁きを受ける運命にある。

(3)
神は領域、領域に専門家を起こし、その場を管理させられる。ある人には教師という仕事を、ある人には八百屋という仕事を、・・・。

各領域の人々は直接に神と結びついており、神に対して責任を負っている。つまり、職業を通じて、御国を前進させるという責任を負っている。

教師は、聖書の教えにかなった内容を、分かりやすく教えることにより、御国が増進する。八百屋は、安全で美味しい野菜を売り、家庭の食生活の充実に貢献することによって、御国が増進する。

教師は八百屋に指示しないし、八百屋も教師に指示しない。互いに独立した領域である。そして、それぞれの領域が神につながることによって、教師と八百屋は一体化する。

これが、「一と多」の調和である。多様性と統一性の調和は、一人の神を信じる各個人が互いの領域に干渉せず、それぞれが神に導かれていることを確信し合い、御手の働きにすべてを委ねることによって成り立つのである。

これは、全能の神を信じる以外に成立しない。神を信じる人々は、「自分の能力の及ばないことについては神に委ねる」という信仰がある。

自分でどうしようもないことがあったら、委ねて忘れることである。この「神への依存」こそが、自由社会の基礎である。

このような神の「見えざる手」を信じられなくなると、全体主義という名の魔の手が近づいてくる。

(4)
共産社会がなぜ密告やスパイ、盗聴、疑心暗鬼に満ちていたのか?

それは、人間の力で何でもやろうとしたからだ。全能でもない者が、全能者の真似をするには、情報をできるだけ集めなければならない。そして、その情報に基づいて、細かなことにまで手を出して、統制する必要がある。

神に委ねることを知らない人々は、無数の諜報活動を行わざるを得ないのである。いろんなことに耳をそばだてなければならない。そして、そうしないと不安で不安でたまらなくなるのだ。

神を捨てた社会は、不安に支配される社会である。

私がソ連で暮らして感じたのは、無数の無駄である。我々のような普通の人間にも疑いの目を向けており、私の電話には盗聴器が仕掛けられ、監視役の人間を何人も雇っていた。

壮大な無駄!

馬鹿としか言い様がない。

クリスチャンになることの最大の祝福の一つとは、「無用な心配をしないで済むようになる」ということだろう。

自分の手が及ばないことについて心配しても仕方がない。そういった自分の能力を超えたことは神に丸投げすればよいのだ。そして全部忘れる。

からまってめちゃくちゃになった糸のような問題はほったらかしにしよう。神に丸投げして「できないので、やってください。」と申し上げよう。そうすれば、忘れたころに、それはほどけているだろう。

人間の能力の及ばないことを心配することは、時間と金の無駄遣いである。神を信じない人や国家は、心配と恐怖の無間地獄に落ち込み、ついには破滅してしまうだろう。

(5)
共産主義の社会では、エリート指導者が神の代わりに何でも口を出すようになる。

金正日は農業にまで口を出す。素人考えでやるものだから、混乱が生じているという。

毛沢東は、国民に鉄を生産するよう命令したので、国中鉄だらけになった。それに、鉄生産の間に本業がおろそかになったために経済は混乱した。

日本でも、昆布を根付かせるためのブロックを役人が場所を決めて投下したとニュースで報道されていた。漁民は「あんなところに落としても昆布はつかねえ」と愚痴っていた。

すべて傲慢のなせる業である。

「何でも俺がやらないとダメだ。他人に任せておけるか」と考えているからだ。

彼らは真面目である。真面目だからこそたちが悪い。

全領域において権威者となれるのは神しかいない。神は万物を創造されたから。

しかし、人間は、各自才能が限られており、それぞれ専門分野を持ち、互いに助け合うように創造されている。だから、自分の領域以外に口出しをするべきではないのだ。

今の徴税と分配の中央集権的方法は、神の真似事をするマルクス主義に基づいており、即刻廃止すべきである。

国が携わるべき業務を、聖書が指示する領域に限定すべきだ。そして、その他の分野を各専門家に任せるべきだ。

 

 

2005年2月3日

 

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