聖書信仰を貫けるか貫けないかは神の選びによる


御国の働きをするときに、働き人の周りには多くの人々がやってくる。彼らは一時的に我々伝道者の味方になる。

しかし、我々伝道者は集まってきた人々をそのまま継続してつなぎとめることを期待してはならない。

なぜならば、「人間の本質は変わらないから」。

人間は、最終的に自分に相応しい決断をする。三位一体論者は三位一体論を信じ続けるだろうし、反三位一体論者は一時的に伝道者とともに歩むことはあっても、いずれ自分の古巣に帰る。

人間は、自分に合ったもののもとに帰る。

神に選ばれた人々、福音を最後まで握り締め、聖書を無謬無誤の神の御言葉として持ちつづける人は、最初からそのように「選ばれていた」のである。

途中で福音を捨てる人は、神によってそのように「選ばれていた」のである。

福音を捨て、救いを捨てる人は、「もともと神によってそのように選ばれていた人」なのである。

我々人間の側で彼らを変えようとしても無駄である。

それは、人間のレベルの問題ではなく、神の領域の問題である。

どんなに善良であっても、どんなに教会に貢献したとしても、福音を捨て、イエスを捨て、聖書の無誤無謬性を捨てるならば、彼らには救いの余地は一切ない。

「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。」(ヘブル6:6-8)

残念ながら、伝道者は、このような人々と出会い、別れる。

自分が救いに導いた人々の中からこのような人々が起きることは悲劇である。

絶対に体験したくないことである。

しかし、それは起きる。

それを避けることはできない。

我々は、彼らを再び回心させることはできない。

彼らの考えを変えることはできない。

人間の努力は無意味である。

もしかして神があわれんでくださり、立ち返りを与えてくださるかもしれないが、それは、人間の側の努力によるのではけっしてない。

私は、教えを変えない。聖書信仰を貫く。誰が反対しても、聖書こそ知識における最高権威、前提であると一生主張し続ける。

この点において同意できないならお引取りいただく以外にはない。残念ではあるが、仕方がない。

 

 

2006年7月2日

 

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