自然主義と超自然主義の戦い


近世合理主義とは自然主義である。自然を無垢と考え、自然を人間社会の規範にする。

これは聖書の教えと真っ向から対立する。聖書は「自然は堕落しているので規範にはならない」と主張する。

スピノザ(1632-77)はユダヤ人であったが、徹底した合理主義者であり、「自然法と合致する部分だけ律法には価値がある」と考え、超自然的啓示は合理的人間にとって無意味であると主張した。
当然のことながら、彼はユダヤ教から破門され、アムステルダムのユダヤ人コミュニティーから追い出された。

このスピノザの律法に対する合理主義的態度は今日の諸教派の教会全般において見られる。スコットランド長老教会が再建主義を批判したのは、スピノザとまったく同じ理由からである。

律法を善悪の判断の基準として生活全般に適用する決疑論の方法はかつてユダヤ教にも、カルヴァン主義キリスト教のうちにもあった。しかし、17世紀においてスピノザとニュートンがこの2つの宗教から律法を追い出して以来、次第に決疑論はキリスト教のうちから消えていき、その代わりに自然が規範として採用されるようになった。

半合理主義者であったローマ・カトリックを批判して「聖書のみ」を頑強に主張したカルヴァン主義者ですら、合理主義の波に飲まれ、聖書律法を基準として用いることを拒否することによって、実質的には合理主義者に変貌した。

聖書律法による決疑論の回復は1973年にラッシュドゥーニーの『聖書律法綱要』の発表まで待たねばならなかった。今我々は、失われた300年を取り戻すために戦っている。サタンは教会の中に自然主義という強固な砦を築いてきた。聖書律法を主張するとまず教会から攻撃され、迫害される。

超自然的啓示を絶対とするのか、それとも、自然を絶対とするのか。この戦いは、最も基本的で重要な戦いである。本当に回心し救われているクリスチャンは今このことを悟らねばならない。

これと比較すれば、悪霊追い出しも神癒も些末な戦いである。本当の敵は、自分のうちに住む自然主義である。

あなたは、堕落した自然を規範とするのか、それとも、神の誤りなき御言葉を規範とするのか?

 

 

2004年4月26日

 

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