クリスチャンは死なない



また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。(ヨハネ11・26)

この御言葉を真面目に信じている人が何人いるだろうか。

クリスチャンは、死なない!

絶対に死なない。

「え〜、ノンクリスチャンと同じようにクリスチャンも死にますよ。」というだろうか。

それは、間違い。クリスチャンが病院や事故などで死んだように見えるが、実は体を与えられて別の場所に行ったのだ。

その体は永遠の体。

これ以外の考えは、すべて「クリスチャンも死ぬ」と告白している。

「死後霊になって再臨を待つのではないですか?」とディスペンセーショナリストは言うだろう。

しかし、逆に私は尋ねたい。

「霊になるなら、ノンクリスチャンと同じ死んだことになりませんか?」と。

イエスが「あなたは死なない」と言われたならば、そのとおり信じなければならないのだ。

とすれば、我々は、クリスチャンの死とノンクリスチャンの死とを区別しなければならない。

クリスチャンの死は、死のように見える変化だ。

クリスチャンは、いわゆる「死」の後、別の体を与えられて永遠にどこかで生きている。

私は、その「どこか」がどこなのかに興味がある。

今、「死んだ」クリスチャンは、どこかで生きている。イエスが永遠の体において生きておられる場所で。

パウロは、無数の証人に取り囲まれていると述べたから、この地上において我々の気づかない形で我々とともに生きているのかもしれない。

復活体のイエスは瞬間移動された。今いたかと思うと瞬時に消えた。

鍵をかけていた部屋の中に、壁を通り抜けて入られた。

我々は、イエスと同じ復活体を与えられると約束されているから、恐らく召されたクリスチャンも同じようにこの世界の物理法則を超越した形で生存しているのだろう。

血肉の体は一時的である。しかし、この体を脱ぎ捨てて、新しく与えられる体は永遠の体である。

そこにおいて我々は永遠の恵みの中に置かれる。

もう一点、なぜ我々が死後、霊にならないと私が考えるかというと、それは、新約時代において、イエスが体を持たれたからである。

イエスは、教会の頭であり、我々イエスにつく者たちは、そのイエスの御体につく者たちである。

だから、我々は、教会において聖餐のパンとぶどう酒を食す。

我々は、単なる霊的な共同体ではない。体という点においても、イエスにあって共通体である。

となれば、召されたクリスチャンがそこから除外されるはずはない。

彼らも体があり、我々とともにイエス・キリストの御体につながれているはずだ。

旧約時代において、まだイエスは受肉されていなかったから、契約の民は、死後霊だけになり、中間状態に移った。

しかし、イエスの受肉以降、彼らにも体が与えられ、イエスの共同体の一員に加えられた。

十字架と復活において、旧約時代の聖徒たちは、復活したのである。

そして、我々新約時代の聖徒たちは、死後すぐに復活する。

我々は中間時代は不要だ。なぜならば、すでにイエスが受肉され、体を持っておられるから。

我々は霊にならない。我々は、旧約時代のクリスチャンとともに、死後イエス・キリストの御体にあずかる。

今の血肉の体においても、我々はイエス・キリストの御体の一部なのではあるが、死後、永遠の体として再び御体に接木される。

契約的一体とは、霊的なだけではなく、体的にもそうである。

人間は霊と体でワンセットの被造物であるから、霊的一体だけではなく、体的にも契約の一部となる。

我々はこの人生が終わっても、すぐに新しい人生が始まる。それこそが本当の人生である。

 

 

2008年6月28日

 

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