自然は基準にならない


<hm様>
いわゆるクリスチャンのなかでも護憲の立場にいる人は今の憲法を神様が与えてくれたものだと見なす人がいることに私はクリスチャンになってから日々疑問を感じていました。

これは社会学者の小室直樹氏が氏の著作でいわれていたことですが日本国憲法は自然権や社会権(人権)をもとになりたっていると。

しかし、聖書を読んでもどこにも自然権や自然法、人定法、人権に基づく憲法を制定しなさいと書いてはいません。

新約聖書を読んでも法に従いなさい、施政者に従い祈りなさいとしか書いてないのではないかと私は思いました。

新約聖書から私は自然法肯定、適用の根拠を読み取れませんでした。

ですから私は神様の御心にかない、送ってくださる法というか憲法は聖書に文字どおり書かれている律法が国家の法になったときではないかと。

ですから再建主義者の方々の聖書に忠実に従い聖書のみ前提に考え、行動する姿勢にすごく共感を覚えます。

<tomi>
非常に良くご理解いただき感謝します。

自然権や自然法、人定法、人権は、「自然は自律している」という前提から生まれた思想です。

「自然」という言葉そのものが、このことを示しています。

しかし、聖書は、自然も神の被造物であり、神の計画に基づいてある目的の元に造られたものであると述べています。

ですから、自然に存在するものはこの世には一つもなく、すべて神の意志に基づいて成立している。

聖書は、自然には2つの制約があると述べています。

(1)被造物としての制約
今述べたように、自然は被造物であり、それゆえ、神の命令のもとに置かれています。自然だけで自律して歩いているわけではない。

しかし、現代人は、自然が自然法則によって「のみ」動いており、神の介入は一切存在しない、と考えています。

だから、聖書の処女降誕の記事が信じられないのです。「自然法則以外の方法で物事が起こるはずがない」といって。

しかし、神はエデンの園において、すでに特殊啓示を人間に与えられた。

「この木から取って食べてはならない」と。

自然が自律していると考える人々はこれに反対します。

「目によく、食べるによさそう、ということは、食べてもいいんだ。」と。

彼らは、何でも「帰納法的」に認識しようとします。「実験・観察によって自然の仕組みを知り、そこから法則を得よう。それだけでいいんだ。特殊な啓示など必要ない」と。

しかし、創世記は、「最初から、自然を越える、神の命令があった」と述べています。

ということは、「帰納法的認識論だけではだめだ」ということです。

経験科学の実験と観察によって知識を得る方法を絶対視する近代の「経験主義的認識論」は偏った認識の方法であり、クリスチャンは絶対に採用してはなりません。

創世記3章の禁止命令は、聖書の御言葉が経験科学の知識の上に立つべきだということを示しています。

どんなに進化論が正しいことを示しているような「証拠(ホントは証拠でもなんでもないんですが)」が出てきたとしても、クリスチャンは、神の言葉がこのようなデータよりも上にあると考えるので、それから生まれた進化論的結論を拒否すべきです。

近現代人は、「まず経験ありき」と考えますが、クリスチャンは「まず御言葉ありき」と考えます。経験主義を絶対とする人々は、「それは盲信だ」と批判するでしょうが、我々は、人間の自然理性よりも神の啓示のほうが上位にあると考えるので、その批判を一蹴します。

(2)堕落による制約
自然界は、人間の堕落に巻き込まれたと聖書は述べています。
だから、自然は基準になりません。
啓蒙主義など近代の政治思想の源流の哲学は、自然を基準にしています。しかし、自然は堕落しており、基準になりません。

マルキ・ド・サドのような徹底した自然主義者は、動物の近親相姦や子殺し、同性愛、食糞を真似るべきだと主張しますが、我々は「自然は堕落しているので、自然を基準にはできない」と主張します。

今の法律は、自然主義ですから、我々クリスチャンはそれを批判的に扱うべきであり、聖書律法よりも上位に置くことはできません。


<hm様>
それから富井先生が聖霊の働きと悪霊の働きを強調することにすごく共感を覚え励まされました。

私は常々なぜ改革・長老派の人達は神様の主権を重んじるのに聖霊なる神様の働きを重視していないのだろうと思っていましたので。あれほど父なる神様の選びを強調するのに。聖霊の働きは御言葉の内的啓示だけなのかと。

ですから改革派の基盤にたっている富井先生が霊的な働きを大切にし、日々の掲示板でそのことを示していることがすごく嬉しかったです。

<tomi>
聖書は、霊の世界を中心としていますので、霊について言わないキリスト教は本質から逸脱していると思います。

パウロは、この物質世界や歴史のありさまを、競技場に例えています。

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(ヘブル12・1)

これは明らかにオリンピックの競技場のようなものを想定した表現だと思います。

信仰によって勝利を取った人々が我々の周りにいて、我々の競走を観客席から見ている、と。

霊界にいる人々が我々の世界に対して関心を持っていると思われる記述がほかにもいくつか聖書の中にあります。

「山上の変貌」の記事の中で、モーセとエリヤが現われて、イエスの最期についてイエスと話し合っていた、とあります。

霊界にいる人々が、歴史の進展について知識があり、それについて大きな関心を寄せているということが分かります。

以前にも掲示しましたが、聖書の世界観によれば、我々の肉体的死は、至聖所に入ることを意味しています。

至聖所とは世界を統治するための神の玉座であり、これは聖書の中で繰り返して登場する「天の御座」と対応しています。

だから、イエスが昇天されたことは、至聖所に入り、世界の主権者になったことを意味している。そして、クリスチャンは、すでにイエスとともに復活し、昇天している(エペソ2・6)のだから、クリスチャンも統治者である。

ヨハネは、はっきりとクリスチャンが今世界を支配していると述べている。

「あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王(または王国)とし、祭司とされました。彼らは地上を治めているのです。」(黙示録5・9−10)

このことについてペテロもはっきりと証言しています。

「しかし、あなたがたは、・・・王である祭司・・・です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(1ペテロ2・9)

つまり、黙示録5章は、未来のことではなく、現在のことなのだ、とペテロは証言しているわけです。

すでに他界したクリスチャンも、今地上に生きているクリスチャンも、王であり、祭司であると聖書が述べている。もちろん、王や祭司は、自分の王国のことについて関心がある。

ここから考えて、霊の世界を現実との関わりの中で見ないという今のカルヴァン派のあり方は間違っていると思います。

<hm様>
同時に、ただ聖霊の働きを強調するのではなく聖霊の働きかどうかは先生がおっしゃるように常々聖書と照らし合わせて判断していくことが大切だと思いました。

実は悪霊の働きだったなんてことだったら冗談ではすまされませんので(笑)

<tomi>
そうですね。
霊を扱う際に注意しなければならないのは、霊について何でも言えるということです。

つまり、霊について語ったことについて経験科学は何も証明できないのですから、いきおい、「言い過ぎ」ということが起こる。

たとえば、誰かが「死後の世界を見てきました。」と証言しても、誰もそれをチェックできない。ここにサタンが付け込む隙があります。

この世のあまたの新興宗教が霊の知識によって人々を幻惑するのと同じように、教会も聖書から離れた霊体験を主張するときに、同じ幻惑に巻き込まれる。

霊について唯一の試金石は、「体験」とか「感覚」ではなく、聖書です。

あの世について、霊について、何かを言う人がいたら、彼(または、彼女)の発言を聖書からチェックすべきだと思います。

今日、預言を強調する教会がバランスを失って、カルトのようになっているのは、この「知識の限界」についてしっかりとした見解を持っていないからと思います。

<hm様>
いろいろな試練や苦しみがあろうと思いますががんばってください。主の恵み、支え、励まし、平安、希望が富井先生の上にあり続けますように。

<tomi>
感謝します。

 

 

2004年9月2日

 

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