プレテリズムの聖書解釈13


<O様>
先日の聖日礼拝、配餐時の聖書朗読がヨハネ6:47〜58で54節で「はっとした」と申し上げましたが、両先生方の御回答を読み、聖書を何度も読み返しておりましたところ、今度は第一コリント11:26で「はっと」しました。
「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」
「主が来られ」たのがAD70年であるのなら、21世紀を生きている私たちは、もう聖餐式を行わなくても良いのでしょうか?

<tomi>
フルプレテリズムの場合そういうことになりますね。
フルプレテリズムは、この個所が紀元70年に主が来られたことについてのみ述べていると考えるわけですから。

同じ問題は、大宣教命令についてもでてきます。
大宣教命令は、すべての国民を弟子とせよ、との命令ですが、黙示録21章では、「諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。」とあり、「大宣教命令の完成図」を提示しています。

これが紀元70年にすでに終わっているとしたら、大宣教命令もすでに完成しているということになり、我々は、今後、世界宣教について何を基準にして考えていったらよいかまったく分からなくなります。我々は次のように考え悩むでしょう。

「もうすでに、黙示録21章は成就したわけだろう。すでに、諸国民が新天新地に入り、新エルサレムに入っている。そうなら、我々にとって海外宣教の使命は残されているのか?もし残されているなら、いったいどのような?」

 

 

2004年11月18日

 

ツイート



 ホーム

 



millnm@path.ne.jp