律法を拒否する人間は救われない


聖書において契約は「わざの契約」と「恵みの契約」の2種類に分けられる。

ルーク氏は、私が「恵みの契約はアブラハム契約に始まると述べている」という。

しかし、2005/10/13の『契約神学の考え方』を見れば分かるように、私は、アダムが堕落した時に与えられた「原福音」から恵みの契約に入ったと述べている。

繰り返すが、私の考えは既存の正統的な宗教改革神学とまったく同じである。

(1)
わざの契約とは、自力救済の契約である。つまり、「律法を守ることによって救われる」という契約である。

アダムはこれに失敗したので、アダムの子孫は全員、失敗者である。

アダムが罪を犯したときに、人類は全員アダムの腰の中にいて、アダムとともに失敗した(ヘブル7・10)。

だから、律法を守って救いを得ようとする人々は、自動車免許において検定中に減点数が規定をオーバーしたために、試験中止を宣告されたのにいまだに試験が続行していると考え、懸命に無駄な努力している人に似ている。

聖書的キリスト教以外の宗教はすべて、「法を守ることによって救われる」と考える。

しかし、法を守ることによっては人間は絶対に救われない。

人間に残された唯一の道とは、「法を守って合格した人と一体化すること」である。

キリストは、法を完全遵守し、神の試験に合格された。だから、キリストに結びつくことによって、人間は神から合格のはんこをもらうことができる。

キリストに結びつき、キリストの子孫、キリスト族になるには、信仰を持つことである。

ナザレのイエスがキリストであり、救い主、神、主であると信じることによって、人間は、キリスト族になり、キリストの御体である教会の一部になる。

この信仰による契約を、「恵みの契約」と呼ぶ。

アダムとエバが動物の毛皮(メシアの犠牲を象徴)を着せられた(創世記)ときから、恵みの契約が始まったのである。

神はアダムとエバに「へびの末に打ち勝つ女の末」の約束をお与えになった(創世記3・15)。

この「原福音」から、契約はすべて恵みの契約である。

ディスペンセーショナリズムは、モーセ契約を「わざの契約」と考えるが、間違いである。

モーセ契約も、他の契約と同様に、「恵みの契約」である。

イスラエルの民は、まず小羊の犠牲によって救われた後に律法を受けたのである。

十戒の2枚の板は、契約の箱に入れて与えられた。これらの板は剥き出しになっておらず、贖いの蓋によって守られていた。

これは、モーセ契約が恵みの契約であることを示している。

イスラエルの民は、律法を守ることによって永遠の命を得るという目的で与えられたのではなく、守ることによって聖く正しく豊かな「救われた者らしい」生活を得させるという目的で与えられたのである。

(2)
恵みの契約が、「律法を守ることによって永遠の命を得るためのものではない」というならば、なぜパウロは、「不品行な者や姦淫を犯す者、偶像礼拝者等は御国を相続できない」と言ったのだろうか?

「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」(1コリント6・9−10)

これはあたかも律法を守らない人間は救われないと言っているのと同じではないだろうか?

たしかにそうである。

姦淫を犯す人間は、たとえクリスチャンと名乗ってはいても、救われない。

人間は律法を守るか守らないかによって救われるか救われないかが決定されるわけではないが、しかし、やはり不品行、姦淫、偶像礼拝など罪を犯す人間は救われない。

なぜならば、こういった罪を犯している人間は「悔い改めが見られない人間」だからである。

聖書が述べているのは、「行いによって義と認められるわけではない。悔い改めて、イエス・キリストの主権を認めた人間が義と認められる。」ということである。

そして、聖書は「不品行・姦淫・偶像礼拝・泥酔…を行う人間は、悔い改めて、イエス・キリストの主権を認めた人間であるはずがない」と述べているのである。

悔い改めてイエスを主と認めているならば、聖霊が働いてこのような重罪を止めさせるはずである、と。

「恵みの契約」に留まりつづけるための資格は、「イエスの主権を認めること」である。

彼の主権を認めるということは、日々罪を悔い改めて、イエスの法に服従することである。

どこにおいてもそうであるが、法に服従しなければ、その主権を認めていることにはならない。

会社に入って、会社の規定を無視する人間は、その会社の主権を認めていない。

また、会社の規定を無視しているわけではなく、「無視していませんよ。会社の主権を認めていますよ。」と言うにもかかわらず毎日遅刻する人間がいる場合、その人間の「会社の規定を無視していない」という言い訳は会社に通らない。

1コリント6・9−10や、次のマタイ7・21−23は、「律法を軽視しているとしか考えられない罪人は、救いから漏れる」ということを証言しているのである。

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」

イエスを主と告白する人間(恵みの契約に属する人間)は、罪の生活を続けない。真剣に悔い改めてそれを止める。

御霊の実を結んでいない人間は、御霊を受けているとは見なされないのと同様に、イエスを主と告白する人間は、律法を守るはずであり、律法を嫌うはずがない。

律法を嫌って、その適用を拒否する人間は、イエスを主とする人間ではないので、救いから漏れて、永遠の刑罰を受ける。

 

 

2005年10月22日

 

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