天照大神とイエス・キリスト3


この神社本庁調査部の岡田米夫氏の見解は、キリスト教との習合を目指すものであるのかもしれない。

神道は不変の教典がなかったため、古来から体制側にすり寄る形で教義を変え、体制に都合のよい宗教に変貌してきた。

「長いものには巻かれろ」だ。

アメリカの統治下に置かれた戦後において、欧米化の風潮の中で生き残りをかけるために神道側がキリスト教の教義を取り込んだのかもしれない。

しかし、どうもそれだけではないように思える。

 元駐日イスラエル大使エリ・コーヘン氏は著書『大使が書いた日本人とユダヤ人』(中経出版)の「まえがき」において、日本人とユダヤ人の類似性について次のように記しておられる。


 わたしは、今、日本との出会いで三度目の体験の中にいる。

一度目は、三歳の時に日本の武道である空手にはじめて出会った体験である。空手体験は、わたしの胸に忘れ難い感動をもたらした。この鍛錬は今も日々欠かさず続けている。

 二度日は、武道の修行を通して、日本各地を訪れ古い日本文化の一端に触れた印最深い体験である。その文化体験は、わたしの人生にとって生きるための心の糧を与えてくれるものであった。

 そして、三度日の現在は、二年前に駐日イスラエル大使として日本に赴任して以来、日本の各地を訪れ、また、皇室の方を含む、各界の多くの人々との出会いを遺して得た体験である。人との山会い体験は、日本に対する関心と愛着をさらに強めてくれた。

 これらを通Lて、わたしは、日本民族とユダヤ民族の共通点と絆を見出すに至った。それは、論理で理解できるもののほかに、わたしの心の琴線に触れるものも多く、不思議としかいいようがないものである。ことに、両民族の歴史の中で、それぞれ接点をもたず固有に培われた文化、あるいは個々人の精神性の中に、驚くような共通点があった。それは、どう表現していいのか、一言では言い尽くせない。

 それゆえ、わたしは、この類似点と、それに対するわたしなりの解釈を、本書の中で魂を込めて書きすすめていくつもりである。

 わたしが特に興味を抱いたのは、一神教のユダヤ教と、その対極にある八百万の神々からなる日本の神道との関係である。それにかぎらず一見、なんのつながりもない両民族の間に、じつに広範にわたる分野において、多くの共通点が見出せたことである。わたしにとって、その共通性は、大いなるカルチャーショックでさえあった。いうまでもなく、日本民族とユダヤ民族の類似点また相違点については、これまでも多くのことが書かれ、そして語られてきた。さらにこのテーマはこれからも繰り返し論議されていくことであろう。

 わたしは、この本を通して、わたし自身がとらえ感じた日本とユダヤの類似性の紹介を試みるものであり、二つの民族の由来などを学術的に証明しようとするものではない。

 本書は、主にわたしの五六年の人生を通じて得た体験、学んで得た知識にもとづいて記したものである。なかでも後半の三五年間は、わたし自身の神を敬うユダヤ人としての生活、そしてその中で日本の武術の稽古に日々励んでいる武道家としての体験が折り重なっている。三千年間守られてきた聖書の律法にもとづくユダヤ人の生き方、日本古来の武道家としての人生、それはまったく交わりようがないように見えるかもしれない。

 しかし、わたしの考え方や行動において、じつはそれは一つとなっているのである。

 さきに触れたように、日本人とユダヤ人は、一見なんの接点もなく、遠く離れているように見える二つの民族である。にもかかわらず、その精神や文化、民族性について調べていく中で次々と見出される類似する新しい事実に、わたしの心は魅了されている。そして、この二つの民族について、さらに深く知りたいという願望は尽きない。

 本書は、七章に分けて内容を構成している。わたしは、読者が本書を通して、なぜこのようにかけ離れ、違う民族である日本人とユダヤ人が似ているのか、という問いかけへの解答を得ることができると確信している。同時に解答を得るために、読者からの多くのご質問をお待ちしている。

 ラビ・トケイヤー氏をはじめ多くのユダヤ人が持つこのような類似の感覚はどのように説明できるだろうか。

 イスラエルに滞在し、ヘブライ大学に学んだ坂東誠氏によると、ベン・アミ・シロニー教授の日本文化に関する授業は非常な人気を集めているそうだ(『古代日本ユダヤ人渡来伝説』(PHP研究所))。

 ユダヤ人の側からも日本に対する関心が集まりつつある。

 私には、日本民族の根底にユダヤ及びキリスト教があったと考える以外にはないように思われる。

 

 

2008年11月18日

 

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