罪を清算する方法


昔から宗教に人身御供が伴ってきたのは、罪責感のせいである。

「今年は雨が少ない。きっと神様がお怒りになっているからだ。誰かを生贄に捧げよう。」

人間は神の被造物なので、生まれながらに「悪の結果は刑罰である」ということを知っている。そして、自分が罪人であることも。

罪を犯せば帳尻合わせが必要であることを知っているからこそ、人身御供が世界の宗教に普遍的に見られるのである。

実はキリスト教も人身御供の宗教である。

ただし、他の宗教と違う点は、イエス・キリストが代表して一回だけ生贄になったので、その他の誰も生贄にならずに済んでいるということである。

誰もが自分の人生において帳尻が合っていないことを知っている。借方に多くの負債が積み重なっていることを。

キリスト信仰がなければ、「人身御供の欲求」は満足されない。

現代において心の病が流行っているのは、このような帳尻合わせに失敗しているからだ。人間の精神が安定するためには、犠牲が必要なのである。

イエス・キリストが十字架にかかって死なれたのは、我々の罪の清算をするためである。この人身御供を信じる者は誰でも、その罪をきれいさっぱり洗い流すことができる。

昔の罪、日々犯す罪、そしてこれから犯すであろう罪は、すべて祈りの中で告白し、イエス・キリストがそのために死なれたことを信じるならば、完全に消えてしまう。

あなたには、自分のために犠牲となってくれる人がいるだろうか。罪の苦しみから救われるただ一つの方法は、信仰以外にはない。

 

 

2004年5月7日

 

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