こういうのをカルトって言うんですよ


<Q>

私どもノンクリスチャンは、キリスト教や聖書についての知識を一般的な図書から得ていることがほとんどです。それは高校や大学で教えられるのと大体同じ内容ですね。

ですから、聖書をそのまま「神の言葉」と信じることは、すくなくとも今の私には難しいです。

ただ、ブルトマンなどの神学者の考えは、キリスト教の匂いが立ち込めていても、私などにはわかりやすいような気がしました。ブルトマンはクリスチャンであっても、イエスの復活を歴史的事実とは見ていないようですね。

また日本では東京工大の八木誠一氏の本など、とても良いと思いました。

こういった学問的な本は、あまり教会的とはいえない面もあると思います。

<A>

聖書をそのまま神の言葉と信じなければ、神の言葉というのは永遠に我々から失われます。

聖書に「神の言葉が含まれる」というならば、では、どれが神の言葉で、どれが神の言葉ではないと、一体どのような基準で、一体誰が決定するのでしょうか。

「奇蹟否定論者」は「俺は奇蹟は信じられない。だから、奇蹟に関する聖書の個所はすべて後代の追加文として解釈し、その部分を聖書から切り取ってしまうべきだ」と考えます。

「予言否定論者」は「未来のことを予言し、それが当たった場合、そのような未来予言は実現するはずはないから、それを後代の人々による加筆と考えて聖書から切り捨てよう」と考えます。

こういった切り取り作業が許されるならば、できあがった聖書の厚さは各人によって異なります。

なぜならば、人それぞれによって主観は様々だからです。

結局、こういった切り取りを許すキリスト教とは、実はキリスト教ではなく、「ワタシ教」なんです。

自分の考えに基づいて聖書にハサミを入れることは、自分の考えのほうが聖書よりも優れていると考えているわけで、こういった思い上がりはその人物が悪霊に取り付かれているとしか考えようがない。

こういった悪霊憑きによる聖書批評こそ、異端であり、カルトと言うんですよ。

聖書を神の霊感によって記された御言葉として完全に受け入れるという立場は、けっしてカルトではない。

もしカルトならば、ではカルヴァンやルター、ウェストミンスターの神学者らはカルトだったということになってしまいますね。

正統的な聖書信仰のキリスト教をカルトとし、八木とかブルトマンなんかの異端者をクリスチャンと呼ぶ・・・

イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」(マタイ17・17)

 

 

2004年12月31日

 

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