法を毛嫌いする思想をキリスト教の中から取り除け2


キリスト契約(恵みの契約)の中に入った人間も法を守らなければならないというと、「信仰義認」の教理と矛盾するのではと批判する人がいる。

違う。

恵みの契約の法とは、「贖いの法」を含む。

つまり、罪を犯した場合に、犠牲をささげることによって、赦される。

その犠牲とは、モーセ律法においては動物であったが、キリスト契約においては、キリストである。

キリストにあって神に赦しを請い、犠牲をささげるのである。

いや、キリストの犠牲は一回限りであるから、過去に実行された犠牲が適用されるように祈るのである。

2000年前に実行されたキリストの犠牲が今の我々の罪の赦しのために適用されることを信じて祈るのである。

罪を犯したら、「キリストの名のゆえに赦してください」と祈れ。

そうすることによって、我々はキリスト契約の法を遵守したことになり、それゆえその契約の中にとどまることができる。

この悔い改めの祈りをしないならば、贖いが成立しないので、契約から排除される。

悔い改めない頑固者がクリスチャンであり続けることはできない。

保険契約において、保険金を受け取るには、契約義務の遵守が不可欠であるのと同じように、キリスト契約の中にい続けて、救いを受けるためには、契約義務であるキリストの法を遵守しなければならず、それに失敗した場合には、キリストという犠牲をささげて、「悔い改め」を行わねばならない。

キリスト契約は、モーセ契約と同じように、「遵守義務と回復義務」がある。

だから、「意図的に罪を犯し続け、悔い改めない頑固者」は、聖餐式に与れない。

聖餐式は、キリスト契約の更新の儀式である。

バプテスマは入会儀式であり、聖餐式は更新の儀式だ。

バプテスマを受ける人は、キリスト契約の遵守を宣誓する。

罪を犯した場合には、キリストによる罪の赦しが適用されるように祈る。

この祈りすらも拒否するならば、もはや契約員ではない。

だから、排除される。

罪を犯して反省がない人間をクリスチャンとしてとどめることはできない。

牧師は、聖餐を拒絶すべきだ。

そして、アナテマ(呪い)を宣言し、除名すべきだ。

除名を宣言したならば、悔い改めて戻ってくるまでクリスチャンとして扱ってはならない。

これが契約の壁である。

エデンの園には城壁があった。

契約には、契約違反者を締め出すための壁がある。

神との交わりを回復するには、門から再度入らねばならない。幕屋の門のところでは、犠牲がささげられた。

神社は、御神域に入るために、赤い鳥居が設けられている。

血の犠牲である。

血の犠牲を経ないで契約に回復できない。

鳥居をくぐらずに境内に入ることはできない。

このように、契約の遵守、法律遵守と信仰義認は矛盾しない。

 

 

2010年2月8日

 

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