御国の中心には幕屋(神殿)がある


> 聖書が示す世界の構造原理を、今の時代に当てはめて、神様のご支配の方法を
> 読み解くというお話は興味深かったです。そのように世界を俯瞰すると、また違った
> 視点が開けると思いました。

神様は、この地球を御国としてお造りになりました。
ですから、それが幕屋(神殿)を備えているのは当然といえると思います。

最初に神様は、陸を作り、エデンを作り、園を作られた。つまり、幕屋(神殿)の構造です。

ノアの洪水によって、すべてがご破算になった後で、神はイスラエルを世界の幕屋(神殿)とされた。

「御国の中心には幕屋(神殿)がある」という構造は、未来永劫変わらないと思います。

ですから、イスラエルの崩壊以降、この地球のどこかが幕屋の役割を果たさねばならない。

全地が聖化された(コロサイ1・20)以上、もはや宗教的な意味での幕屋(神殿)は存在しないとしても、御国としての性質を持つがゆえに、地球には聖所と至聖所に相当する場所があってしかるべきと考えます。

私の感じでは、どうやらユダヤ人は、紀元70年の神殿崩壊以降、日本をそれと考えていたように思えるのです。

日本の真の立場は、世界の御国化が進めば進むほど明らかになってくる。

世界の諸民族が完全に弟子化され、世界が御国と変われば、日本という国の立場(つまり、至聖所)ははっきりとするのではないか。

創世記の陸→エデン→園という創造の順番は、今、ヨーロッパ→アメリカ→日本という形で実現していると感じられます。


> 昔、哲学の本ってどんなことが書いてあるんだろうと、高名とされる人の本をめくって
> みて、何なんだろうこの汚れた教えは?とびっくりしたことがありました。
> 分かるような分からないようなことが書いてあって、本当にみんなこれを理解しているの
> だろうか、と怪しみました。

たしかに汚れています。
哲学の本質とは、反キリストであり、人間による世界の横領です。
神を王座から引きずり下ろして、代わりに人間が座ることができるという主張です。

この「自律思想」は、カントにおいてはっきりとまとまった形になりました。
カント以降は、この自律思想が形を変えて様々な主義となって現われました。
マルクス主義、実存主義、実用主義・・・。
みんな「この世界で主人公は人間であり、人間を越える規範は必要ない」と主張します。

そして、実は、今のキリスト教も自律思想であり、聖書律法を嫌っています。


> 今の時代に生きる人々は、そのような渾沌の方を選んでしまったが故に、方向を見失って
> 元気をなくしているように思います。だめなものはだめ、いいものはいいと強い権威を
> もって示してくれるものを、人は潜在的に欲していると思います。
> 教会の権威が復活することこそが、新しい時代の幕開けになるということですね。

そう思います。
しかし、教会は、世俗の思想の影響を強烈に受けているので、「相手に合わせる」主義になっています。
フラー神学校の「コンテクスチュアライゼーション主義」は、各民族の文化的な環境に、キリスト教が適合していくことを求めます。
だから、聖書も「分かりやすい翻訳を」というスローガンのもとで、大胆な言い換えが行われているものがあります。
数字がメートルなどに換算されてしまって、もとの数字に隠されている意味を読み取ることができなくなっています。

クリスチャンが世の光であって、世がクリスチャンの光ではない、ということを教会は忘れてしまいました。
世の中にあわせればあわせるほど、逆に教会の勢力は減退しています。

聖書に記された基準、規範を大胆に主張して、相対主義の流れを食い止め、真理によって世の中に影響を与えていく必要があると思います。

御言葉に基づく「世界の復活」こそが、我々に唯一残されている道だと思います。

 

 

2004年10月23日

 

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