聖書的法哲学


<BK弁護士様>

なんか変な経緯で,「神の主権」に関する法哲学的・神学的な論争に巻き込まれてしまいました。

Barl-Karthのブログに書いてあるとおりです。

私の考え方に批判の余地があれば,どうかご教授願います。
また,私の論考は,tomi先生のウェッブに転載していただいてかまいません。

ancilla theologiae (回勅) 01:13
http://d.hatena.ne.jp/nomurayamansuke/20090708#1247047671

 M氏から,私の法哲学の根本問題について批判が加えられた。

 この批判に対して謹んで反論する。

1 ancilla theologiae

私は,キリスト教信仰,キリスト教神学を基盤にして諸学が成立していると考えている。すべては,聖書から発するのである。

聖書上の根拠から,主権が神に属すること,そして,「人間主権(王の主権・人民の主権等々)」の根拠は,神から主権「行使」に関し「信託」を受けた点にあると思料する。

 事柄は,神学上の創造論,終末論に関わる。
創世記第1章28節

神は彼ら(引用者注 アダムとエバ)を祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。


 人間主権は,この神の信託命令に根拠を持つ。アダムとエバの堕罪後も「信託命令」は解除されていない。

 しかし,神から信託された「人間(暫定)主権」は終末において,神とキリストに返還されることとなる。

 すなわち黙示録にあるとおりである。
 The kingdom of this world is become the kingdom of our Lord, and of His Christ; and He shall reign for ever and ever.

 この世は我らの主とそのキリストのものとなり、キリストは永遠に支配される。

Worthy is the Lamb that was slain and hath redeemed us to God by His blood, to receive power, and riches, and wisdom, and strength, and honour, and glory, and blessing.

いけにえであり、その血でわたしたちを神にあがなった子羊こそが、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、賛美を受けるのにふさわしい。
 以上の次第で,当職は,M氏にアナテマを宣告するものである。

 ただし,以下の見解は,一応傾聴に値する。

主権も同じ。人間の努力で守るべきものです。守れなかったら取り返すしかない。取り返せなければその国の主権も人権も統治もすべて終わりです。

 しかり,私たちは,創造と終末との狭間にある。その中間期において「人間は,その努力で主権を守るべき」である。神から与えられた「人間理性」や「科学」や「政治」を通じて・・・。

2 私は,「自然法論者」ではない。

 私は,少なくともローマ・カトリック的自然法を排斥する。

 すなわちローマ教会は神の主権・全能性を認めず,神に優先する(あるいは神を超越する)理性・自然を措定し,神をそこに落とし込んでいるのである。この考えを突き詰めると,理信論・汎神論に至ることは明らかである。それ故,当職は,厳かに・かつ無謬の権威をもって,トマス・アクィナスとイマニュエル・カントにアナテマを宣言するものである(カントは,ルター派だから破門できないかもしれない)。

 そうではない。理性ではないのだ。全ては「理性」ではなく神の「意思」に全ての存在の存在論的根拠がある。

3 決定的対立 M氏はキリスト教徒でなくジーザス教徒であり,神学的には,リベラル・ヒューマニズムの立場である。当職の聖書至上ファンダメンタリズムとは,決して交わるところがないというほかない。


<tomi>

聖書的法哲学にたったまさにすばらしい論考です。

私とまったく同じ意見です。

先生に全面的に賛同いたします。

主の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。

 

 

2009年7月9日

 

ツイート



 ホーム

 



millnm@path.ne.jp