情けは人のためならず


聖霊の流れというものがある。

その流れに乗らないと心の平安を失う。

我を張って、牧師や両親など権威の言う理にかなった聖書的な命令や助言を無視するなら、結果は悲惨だ。

ある有名な伝道者が言っておられたが、牧師をしているころ、執拗に牧会を妨害し、非難する長老がいたそうだ。突然死したという。

知人の教会で、盛んに自分の栄光を求め、でしゃばる女性がいた。スタンドプレーが目立った。ついには、仲間を作り、秘密の集会を開いて牧師の悪口を言っていた。最近消息を聞いたら、亡くなったという。まだ若いのに。

教会には必ず悪魔が手下を送り込む。しかし、牧師は軽々しく人を裁くことはできない。根拠なく裁くと自分が裁かれるからだ。

だからはっきりとした根拠や理由が現れるまで放置する。

すると、こういった毒麦は、やがて本性を現して、自滅する。

モーセの態度は立派だった。反対者、謀反者が現れると、すぐに神のもとに跪いて祈った。

神は答えを出された。すると、そのとおりになった。

神の裁きは、場合によっては病気、怪我、死などで現れる。(だからといって、すべての病気や怪我、死が裁きだというわけではない。)

よくあるのが、その人間が批判したことをそのまま自分が行うようになるということだ。

ある教会で、牧師がノンクリスチャンの結婚式の司式をしたことを非難する若者が現れた。後にその若者たちは全員ノンクリスチャンと結婚した。


さばいてはいけません。さばかれないためです。
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。(マタイ7・1-2)

自分が誰かをそしって、非難したら、自分も同じことをするようになるだろう。

だから、許すことだ。それが一番自分に不幸を招かない方法だ。

自分が他人にしたことを、神は同じように自分に返される。

無慈悲な人間には、無慈悲な仕打ちを。

慈愛には、慈愛を。

人をどう扱うかは、実は自分のためでもあるなのだ。

情けは人のためならずという日本のことわざのとおりだ。

 

 

2009年11月6日

 

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