被造物を滅びから解放してあげよう4


人間の目で見れば、クリスチャンの業とノンクリスチャンの業には差がないように見える。

ヒューマニズムはキリスト教の真似をして、聖書の道徳を採用しているから、ヒューマニストも慈善活動をしたり、政治や経済や健康などにおいて互いに助け合ったりしている。労働者解放運動や、戦争反対運動などを行っている。

闘技場で人に殺し合いをさせていたローマ時代であれば、クリスチャンの活動とノンクリスチャンの活動に大きな違いが見えたが、ヒューマニズムがキリスト教によって影響を受けるようになってから違いが見えにくくなった。

それである人はこう尋ねるかもしれない。

「クリスチャンの業は聖められていて、ノンクリスチャンの業は汚れているというのはどういうことだ。どこに違いがあるのか?同じことをしているではないか?」

クリスチャンの業とノンクリスチャンの業の違いは、「アベルの供え物」と「カインの供え物」の違いである。

つまり、「犠牲を通しているかどうか」の違いである。

アベルは犠牲の動物を捧げたが、カインはそれを捧げなかった。

クリスチャンはキリストを信じて犠牲を捧げているが、ノンクリスチャンは捧げていない。

イスラエルが、農作物などの供え物を捧げるときに、必ず犠牲を捧げて、罪の贖いを行わねばならなかった。

人間は、犠牲なしで神に何かを献上することはできない。犠牲なしで捧げられた物は、すべて汚れている。

キリストの犠牲を経由しない努力や文化、労働は、すべてことごとく汚れている。

だからノンクリスチャンの活動はすべて汚れており、神に受け入れられない。どんなにこの世界で偉大な業績を残した人でも、キリストの血が振り掛けられてなければその業績はまったく評価の対象にはならない。

いや、むしろ、彼らの善行は「忌避」の対象となる。だから、それらはその作者の業績にはならず、相続もできない。ノンクリスチャンは、どんなに善行を積んでも、死後の裁きにおいていかなる報いも受けられない。

それに対して、クリスチャンの業には、キリストの血がふりかけられ、聖められているから、神に受け入れられるのである。

神はクリスチャンの行動をすべて、キリストを通してご覧になる。だから、神の目にはあたかも完璧であるかのように映るのである。

完璧なものは、滅びる必要のないものである。罪が混じったものは、この世界において永続できない。神が完全である以上、不完全なものを受け取ることはできないので、罪が混じったものはことごとく刑罰の対象となり、滅びる。

しかし、キリストを通して完璧化されたものは、永続するものであり、クリスチャンにとって永遠の報いになる。

クリスチャンがキリストの名によって、神のために行った善行はことごとく、永遠に残る「報い」であり、それがどんなに小さなことでも報いから漏れることはない。

「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(マタイ10・42)

「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
『この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。』と書いてあるとおりです。 」(2コリント9・6‐9)

ノンクリスチャンが一生をかけて行った事業は、彼が死ぬと同時に無に帰する。何百億という金を手に入れても、それを来世まで持っていくことはできない。

彼の人生は、こと自分に関する限りまったくの無駄骨であり、徒労である。

ラザロと金持ちの例えにおいて、金持ちは永遠の業火の中で苦しんでいた。生前蓄えたお金は何の役にも立たなかった。

注意すべきは、クリスチャンであっても、善行を自分のために行った場合には、消えてしまうということである。

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6・1)

自分の栄光を求めて行った業は、報いにはならない。

人にほめられたくてやった善行は、人からの報いで終わってしまう。つまり、この地上だけの価値しかない。

こういった「地上で報われたい」と思うクリスチャンは、永遠の報いから漏れる。
だから、天国で最も小さい者になる。

注意すべきなのは、「自分の行った善行を誰にも知られないようにする」ということだ。人からの栄誉を受けようとした瞬間にすべては泡と消えてしまう。

この短い人生が終わった後で、神の前に立った時に、すべては逆転しているかもしれない。この世界で有名で裕福で名誉を得た人々は下のほうにいて、まったく無名で貧しく恥を着せられた人々が上のほうにいるかもしれない。

大伝道者と呼ばれる人が隅のほうで小さくなり、名もない牧師が大きな者とされ栄光を受けているかもしれない。

神の視点と人間の視点はまったく異なる。

御国においてはすべてが逆転しているかもしれない。

 

 

2004年7月16日

 

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