律法はいのちを与えないか?9


<LUKEさん>
レスを拝読しました。ポイントがまたいくつか見えてきました:

>キリストがまだ登場していませんので、肉的には(実際的には)アダム族に属しておりますが、神の目から見れば(法的には)キリスト族に属していると思います。
>ですから、彼らの救いは暫定的であったと言うことができます。旧約の人々は死後黄泉に行き、キリストが復活されたときに、キリストとともにパラダイスに引き上げられましたが、新約の人々は黄泉に行かずに、直接パラダイスに行きます。

>アダムの子孫であるノンクリスチャンは、わざの契約の中にいますので、生まれながらに失敗者であり、クリスチャンにならない限り、永遠のいのちの相続にあずかることはできず、むしろ、その罪のゆえに永遠の滅びの中に入れられます。

このふたつの命題から、旧約のユダヤ人の立場が曖昧なのですが、彼らは立場的には非ユダヤ・ノンクリスチャンとは違うと言うわけですね。法的には救われていると(=キリスト族にある)。これがよく分かりません。アダム族とキリスト族は「生まれ」の問題ですから、私の理解ですと、旧約の民はアダム族であり、聖霊を私たちの意味で受けていないとなるわけです。ですから私たちの意味でいのちの御霊の法則に従い得ない、よって律法を守り得ないわけです。富井さんは、「彼らは律法を守った⇒聖霊を受けていたはずだ」という論理ですね。私は「いのちを得ている⇒(いのちの御霊の法則に含まれる)律法を守れる」となるわけです。

しかしもしそうであるならば、なぜパウロはあれほどにユダヤ人の救い(=イエスを受け入れること)を願ったのでしょうか?富井さんの説明ですと、<イエスを受け入れる≠聖霊を受ける>となりますね。私の聖霊との関わりの理解はその二面性です。「外なる満たし=経綸的な力を得ること」と「内なる満たし=いのちを得るること」と区別し、旧約のユダヤ人は前者であると考えています。またパウロ自身の証で「自分は律法の義では問題ない」と言いながら、「律法はなし得なかった」と言う訳です。それは前の契約に欠けがあるからだと。

<tomi>
「アダム族とキリスト族は「生まれ」の問題ですから、私の理解ですと、旧約の民はアダム族であり、聖霊を私たちの意味で受けていないとなるわけです。」

旧約の民は、生まれた際にはアダム族ですが、8日目に割礼を受けてアブラハム契約の中に入ったときに、キリスト族になります。

問題は、「契約入会の儀式である割礼」にあります。しかし、割礼を受けたから同時にキリスト族になったことを意味しないのは、パウロがガラテヤで詳しく説明しているとおりです。

割礼を受けて、魂の変革を受けた人々は「生まれ」に関係なく、キリスト族になります。

キリスト族になった人々には、聖霊が与えられました。なぜならば、聖霊によらずば、聖書を理解できないからです。聖書は霊的なことですが、霊的なことがらは、霊によったわきまえる以外にはないからです。

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(1コリント2・14)

パウロがこの手紙を書いたのは、新約聖書ができる前のことですから、旧約聖書について言っているのです。旧約聖書に記された霊的な教えを理解するには、御霊を受けていなければならないと。

ということは、旧約聖書を理解して、幕屋や神殿において神に賛美を捧げていたイスラエルの人々は、神の霊によってそれを行っていたということです。

旧約の人々が霊によって生きていたことを聖書は証言しています。

「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」(詩篇51・10)

「あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。」(詩篇51・12)

神は、旧約の民に聖霊を下されたとあります。

「わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。」(箴言1・23)

「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」(イザヤ11・2)

聖霊によって行動しない人々を神が叱責しておられる個所があります。

「ああ。反逆の子ら。――主の御告げ。――彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。 」(イザヤ30・1)

預言者は神の霊を宿して預言したとあります。

「あなたのうちには神の霊が宿り、また、あなたのうちに、光と理解力と、すぐれた知恵のあることがわかった、と聞いている。」(ダニエル5・14)

神がモーセにおいてイスラエルと契約を結んでから、イスラエルの間には、神の霊が働いているといわれている。

「あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。」(ハガイ2・5)

旧約と新約を、「霊を受けていない人々」と「霊を受けていた人々」と分けることはできません。

だから、旧約の民=聖霊を受けていない民=律法を守れなかったという図式は正しくない。

 

 

2005年10月13日

 

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