テトス2:11は普遍救済を教えているか?3


<O様>
スミス師の「福音の勝利」から一部抜粋して引用します。Benjamin.B.Warfieldの著書からの引用として掲げられていますが:
「上記の箇所(コロサイ1:20、第二コリント5:14-21)はパウロが語る福音の本質を宣言している。(中略)したがって、パウロの普遍救済主義が自らの福音に対して持っている意義は、どんなに強調しても、強調しすぎることはない。いくつかの重要な点において、この普遍救済主義は彼の福音だったのである。しかし、ウォーフィールドは普遍救済主義という言葉を、個々人が一人残らず救われ
るという意味で用いてはいない。パウロがそのような思想を心に抱いていたことは一切ないと強く否定しているのだ。(中略)イエス・キリストが全世界のための救い主であることは、非常にはっきりしている。キリストが世にこられたのは、単に個々人を世から救い出すためだけではなく、世そのものを救うためであった。(中略)すなわち、イエス・キリストが世のためのなだめの供え物であり、全世界の罪を贖ってくださった、ということだ。キリストが世に来てくださったのは、世を愛するがためであり、世を救うがためであった。そして、事実、世を救ってくださるのである。(中略)イエスは世を救うために来られた。
そして世は彼によって救われるのである。歴史の終わりに、イエスの働きを通して世は救われており、それを御父にお渡しになるのだ。」(「福音の勝利」pp66-69より抜粋引用)
どうも、スミス師のおっしゃりたい内容がはっきりしないので、直接
Benjamin.B.Warfieldの著書にあたらないといけないと思うのですが、「全世界の罪を贖ってくださった」は「即ち、究極的には未信者や背教者も救われるのだ」という極論を導きかねないという不安があります。
昨今、普遍救済主義があちこちで説かれています。先日のFEBCの放送でも、日本キリスト教団の某牧師が、マタイ福音書27:1〜10の講解メッセージで「ユダは自分の罪を悔いた。しかし祭司長たちはユダの罪と関わりを持てなかった。もともと人間は他人の罪と関わることはできないのです。だからユダは自分で決着をつけなければならなかった。しかし主イエスは違います。私たち一人一人の罪と向き合って下さる。そして、それを十字架の上で担って下さるのです。」ここまでは結構です。しかし、次が「?」なのです。「実にイエス様は、ユダの罪をも担って下さったのです。」はい、そうかもしれません。ユダも「すべての人」に
含まれますから。でも、このメッセージ、某牧師は明言されなかったけれども、「だからユダも救われたのです。」ということが言外に含まれている可能性が否定できません。しかし、聖書によれば、ユダは救われませんね。「しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(マタイ26:24)
救いは神様の永遠の御計画に基づく絶対恩寵によるのですね(使徒13:48)。福音はすべての人に提示されなければならない。だからクリスチャンには、大宣教命令が課されているのですね。しかし、残念ながら滅びの道をたどる人も存在するのは現実であり、聖書が説いている真実ですよね。
ヒューマニズムの毒麦が穂を実らせている。敵は実に巧妙に侵食を進めているようです。

<tomi>
イエスを信じる者は救われて、信じない者は救われない。

これが、聖書が一貫している救いの教理です。

これを外れる教えはすべて間違いであり、異端です。

しかし、他方で、イエスは一切のものを救ってくださった、とある。

「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」(コロサイ1・20)

ここで「万物を」「和解させてくださった」と述べられている。つまり、これはすべてのものについての過去の事実について語っている。

すべては救われているのだ、という教えです。

さて、一方では、救いは限定的であるといい、他方では、救いは普遍的であるという。

これをどう調和するか。

私は、次のように考えます。


十字架において万物は神と和解した。
しかし、これは法的な和解であって、実際的な和解ではない。
我々を閉じ込めていた牢屋の鍵を、キリストは開けてくださった。
しかし、我々が外に出るには、そこから自分で出るという作業をしなければならない。
それが、イエス・キリストを信仰し、告白するということだ。
イエス・キリストを信じた人は、外に出て、自由を与えられる。

世界は、イエス・キリストによって和解し、聖められている。汚れたものはない。
しかし、これは法的な聖めだ。
実際的に聖められるには、御言葉を適用しなければならない。
パウロは信仰によらない行為は汚れていると言った。
問題は、「ものそのもの」にはなく、「それを行う心」にある。

現在、どの日も聖い。キリストによって聖められた。
しかし、その日を信仰によらずに使うならば汚れる。
神中心に日を過ごすならば、その日は聖い。
時間そのものは聖い。しかし、それを過ごす人間の心によって汚されることがある。

すべての人は法的に救われる権利を持っている。
しかし、信仰によって救いを適用しない限り、汚れたままだ。
病を治す薬があるにもかかわらず、それを飲まなければいつまでたっても治らないのと同じだ。

このように聖書は、救いの2つの面を述べています。
つまり、普遍性と特殊性。

紀元70年において世界は完成しており、救いも完結している。

キリストは律法と預言者を成就するために来られた。

もし旧約聖書においてまだ成就されていないものがあるとすれば、それはキリストが失敗したことを意味する。

だから、旧約聖書において成就されていないものはない。

いや、それだけではない。聖書は、「万物が和解している」という。

万物が成就している。十字架において万物が新天新地に変わった。そして、紀元70年において旧い体制が完全に崩壊し、「完全に」新しい体制になった。

それゆえ、今我々が見ている世界は、新天新地の世界である。

すべてがキリストにおいて聖められた世界である。

しかし、我々人間がキリストを受け入れていないレベルに応じて「法的事実の適用」に不備がある。

だから、世界は「実際には」新天新地ではない。

実際に世界を新天新地化するには、クリスチャンの意識的な働きが必要だ。仕事などを通じて、世界を御心と調和させていく。そうすれば、徐々に世界は新天新地化されていく。

今、サタンは上記の信仰を崩すため、2つの攻撃をしかけている。

(1)
すでに新天新地になったのであれば、これ以上我々は何をする必要があるのか、と。実際的働きかは不要だとする説。フルプレテリズム。

(2)
まだ新天新地ではない。キリストも、クリスチャンも王ではない、とする説。プレ・ミレ。世界を変えるのは無理だと考える。

(1)をとっても(2)をとっても、この世界への働きかけは不要だということになる。

正しい考え方は、

「すでに世界は法的に新天新地となった。残る仕事は、敵の残党を掃討することだ。」

である。

 

 

2008年3月26日

 

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