黙示録の読み方


T:
「時代が変われば、原理原則も変わる」「今は『法』ではなく『恵み』の時代」

なるほど!イルミナティはディスペンセーショナリズムで(もちろん意図的に)世界を動かしているのだ。

だから「現実を見なさい」でキリスト教界も、苦もなく支配下におけたのだ。

講壇からディスペンセーショナリズムを説けば、クリスチャンはその説教に影響される
だから、クリスチャンは「地の塩、世の光」「地を従えよ」を捨てたのではなくて
そんなこと思いも寄らない状況なのだ(説教している牧師が傀儡なら意図的、そうでなくても牧師から既にそうなっている)。
逆に再建主義が、あたかも新説・珍説か異端のように見えるのだ。

先入観なく聖書を読めば、あたりまえの再建主義・聖書前提主義も、彼らには、「目で見たこともない、きいたこともない」のだ。
あたりまえのことで「再建」しなければならないのだ!!!

そして、それこそカルヴァンの時代から、意図的・自主的にイルミナティは文字通り「反キリスト」であった。
「状況証拠」を造りだしたのだから、プレミレ/アミレ・ディスペンセーショナリズムが「あたりまえ」になっていく
そしてそれこそ聖書のデータを「改竄」して、真っ当な信仰者を陥れてきたのだ!

(スポルジョンも、ローマ・カトリックを「反キリスト」と見ています)

そんな無律法・無秩序あたりまえの状況で、ノンクリスチャンも『恵み』『無条件の愛』に凝り固まっているから
いじめを叱れない、いや、叱ってはいけない

だからモンスターがはびこって

日本は中国の無法に為すすべもないという、心底情けない状態なのですね。

ほら、早速はじまった:
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100922/stt1009222307007-n1.htm


tomi:
>スポルジョンも、ローマ・カトリックを「反キリスト」と見ています

スポルジョンの時代にはまだ黙示録はなぞの書物だったのでしょうね。

「黙示録は紀元一世紀の人々を読者とする書物」という前提がなかったためにローマ・カトリックを「反キリスト」としてしまったのでしょう。

聖書の正しい読み方は、「当時の直接の読者が読んで分からないことは書いていない」という原則です。

これは、考えてみればどの書物についてもいえます。

「読者よ悟れ!これは人間の数字だ!」と叫ぶヨハネが、目の前の読者、紀元一世紀の小アジア半島に住む人々に向けてローマ・カトリックやロスチャイルド、EUの話をするはずがありません。

日本の古典でもそうですが、とくに日記文学などが読解が難しいのは、当事者たちにとっての常識がなかなか我々には理解できないからです。たとえば、人間関係の微妙な部分など、周知の事実として省略して書きますから、千年後の我々には理解が難しい。

このように、文章というものは、直接の読者に向けて書かれている。

だから、その直接の読者が分からないようなことは書かれていない。

ということで、「読者よ悟れ!」とヨハネが叫んだ読者とは「紀元一世紀の小アジアの7つの教会のクリスチャン」であって、我々ではない。

だから、獣とは、彼らが悟ることができる人物。つまり、当時実際に獣と呼ばれていた皇帝ネロ。

黙示録19章までは、紀元70年の審判までの過程の預言です。

それから、今のクリスチャンは、反キリストと獣を安易に結びつけますが、聖書のどこにも反キリスト=黙示録の獣と書いてありません。

反キリストとは、「反キリスト(はんきりすと、Antichrist)は、イエス・キリストの教えに背く人。聖書では新約聖書のヨハネの手紙一(2:18、2:22、4:3)、ヨハネの手紙二(1:7)にのみ記述されている。ヨハネの手紙2章22節においては、イエスがキリストであることを否定する者を反キリストであるとしている。」(Wikipedia)であって、獣とのつながりはありません。

ディスペンセーショナリズム、ハル・リンゼイやティム・ラヘイが作り上げた俗説が教会を汚染しています。

 

 

2010年9月24日

 

ツイート



 ホーム

 



millnm@path.ne.jp