為政者は宗教を利用する


為政者になるような人の性質は、実際的である。だから、宗教に関心を寄せる為政者がいたとしたら、それは、「実利的」な動機からであると考えたほうがよい。

ピラトは、イエスが何も罪を犯していないと認めながら、彼を処刑した。それは、治安が悪化することを恐れたからだ。

彼の関心は、統治を成功させて、出世することにしかなかった。さらに高い次元のテーマ――つまり、宗教――についてはどうでもよかったのだ。

だから、為政者が宗教を口にしたときには、我々は注意しなければならない。それは、国民を騙すための方便である可能性が高いから。

アリストテレスは、

「独裁者は、宗教に対して尋常ならぬ献身の姿勢を示さなければならない。臣民は、この神を恐れる敬虔な統治者と考えている人物が非合法なことをするはずがないと思う。他方、神が彼の側についていると信じているので、容易には彼に逆らうことをしない。」

と言った。

時代を問わず、洋の東西を問わず、為政者が宗教を利用する目的は、「支配」にあるのだ。

さらに、アメリカ大統領マッキンリーは次のように述べた。

「私は、光と導きを求めて、ひざまづき、全能の神に祈った。ある晩遅く、私に一つのアイデアがひらめいた。…我々は、(フィリピンを)フィリピン人に任せることはできない、と。――彼らは自治に相応しくない。すぐに無政府状態になり、スペインが支配した時よりもさらに統治は悪化するだろう…。だから、我々に残された道は、フィリピン全土を奪取し、フィリピン人を教育し、彼らを高め、クリスチャンにする以外にはないのだ。」(ウィリアム・マッキンリー大統領)

こういった人間は、クリスチャンでもなんでもない。単なる侵略者である。

選挙民は、救世主として登場する人物をことごとく疑わなければならない。

ゲーリンクはヒトラーを救世主として紹介した。

「神はドイツ国民に救い主を与えられた。神はドイツを救うために彼を送られた。我々にはこのことに対して深くゆるぎない確信がある。」(ヒトラーについて、ヘルマン・ゲーリンク談)

「しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。」(2コリント11・14)

 

 

2005年11月16日

 

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