聖霊を汚す罪とは


<Q>
もしよろしければ、今から書くことの批評をお願いします。

1、人間が完全に神を信じて祈ったことでも神のみ心に適わなければ叶えられない。

例えば、宣教師がどんなにアフリカで宣教をしたくて祈っても、神のみ心でなければ叶えられない。

<A>
そのとおりです。人間はあくまでも神の僕なので、自分の意思を捨てて神の計画に従うべきです。

<Q>
2、1のこと(私が祈ることは神のみ心に適わなければ、叶わない)に基づいて人が神に祈るとき、「少しも疑わずに信じなさい」というみ言葉に反さない。
(もちろんその人は神が全知全能という点は完璧に信じています)

<A>
人間は、神の臣下ですので、「みこころならば・・・してください」と祈るべきです。しかし、それは不信仰が許されるということではない。人間は、完全な信仰を持つべきです。

つまり、「みこころならば、必ずなる」と疑わずに信じるべきです。

<Q>

「聖霊を汚す罪は絶対にゆるされない」

「正規の活動を強く中傷すること」の他にはどういった例が挙げられるのでしょうか?調べてみたもののディスペーショナリズムやプレミレが入っていたので信用できませんでした

<A>
イエスが聖霊を汚す罪を犯していると言われたのは、パリサイ人たちが、イエスの御業を見て「悪霊によって悪霊を追い出している」といったことについてでした。

それゆえ、聖霊の活動を悪霊の活動と呼ぶことは、聖霊を汚す罪です。

聖霊が行われている活動を悪霊によってやっていると中傷するクリスチャンがいますが、絶対に許されない罪を犯しているといえます。

では、聖霊による活動とはどのようなものかといえば、聖書にしたがって、人間的な欲望ではなく、純粋な気持ちで、神の国と神の義を求めて行っている活動です。

こういう正しい活動について「悪霊による」と言うことは、永遠の刑罰を受けます。

<Q>
それと、使徒パウロは正規の活動をしているクリスチャンを
すさまじく迫害したのになぜ赦されたのでしょうか?

<A>
パウロはほかの箇所において「知らなかったので赦された」と告白しています。

パウロの迫害は、悪いと知りながら行っていることではなかった。だから、哀れみを受けた、と述べました。


私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。(1テモテ1・13)

これを逆に言えば、知っていて行うならば、あわれみはないということです。

自分で悪いことだと知っていながら、他のクリスチャンの活動を妨害し、中傷するクリスチャン(自称)は、永遠の刑罰に値する罪を犯していると言えます。

たとえば、いかなる聖書的根拠も示すことができず、ただ自分の鬱憤を晴らすためとか、自分の派閥を守るためとか、不純な動機で、他のミニストリを批判することは、聖霊を汚す罪になります。

党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。(ローマ2・8)

インターネット上で、匿名だからというので、他の教会やミニストリの悪口を奔放に書きまくるなどという行為は、立派な罪であり、神の怒りと憤りを招きます。

 

 

2009年9月14日

 

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