幼児洗礼の重要性


あるメシアニック・ジューのユダヤ人教師が原罪を否定するようになったという。

原罪とは、キリスト教教理の基本中の基本であって、原罪を否定する人間を異端と判断する以外にはない。

割礼と洗礼はどちらも復活を象徴している。

「誰でも生まれ変わらなければ神の国を見ることができない」というイエスの御言葉は、契約の民に加わるには復活を経験しなければならないということを教えている。

ユダヤ人は自らの血筋を誇ることはできない。

「我々は、アブラハムの子孫だから選民だ!」と叫ぶことはできない。

なぜならば、彼らは生後8日目に割礼を受けたからである。

割礼を受けたということは、「古い肉を捨てて新しい肉を受け取る」ということを意味している。

つまり、彼らは割礼において生まれ変わったのである。

(もちろん、これは霊的な事実の象徴であって、割礼を受けた者が同時に真の神の民になれるというわけではない。割礼を受けても心の割礼を受けていなければ真の神の民ではない。)

アブラハムの血を受け継いでいる者が自動的に神の民になれたわけではないのである。

ユダヤ人は、まず生後8日目(8は復活を象徴する)に割礼を受けてはじめてアブラハムの子孫になれるのである。

この儀式は、原罪を前提としている。つまり、人間はだれであれアダムの契約の中に生まれてきて、それゆえに死に定められている。アダムにおいて契約違反者となり、霊的死と肉体的死に運命づけられている。

その運命を絶ち切るためには、一度死に、罪を裁かれ、そして復活するという手続きを経て、神の命の民に加えられる必要があるのである。

割礼はこのことを象徴している。割礼という儀式は、原罪に対する裁きと、許しを象徴しているのである。

洗礼も同じである。洗礼は、水による洗いを象徴している。これは、罪の清めである。

生まれながらの肉に存在する罪を清め、神の民に加わることを意味する。

だから、割礼も洗礼もどちらも「原罪に対する解決」を意味しているのである。

幼児割礼は、成人割礼よりも、「原罪の処理」をはっきりと示している。

なぜならば、8日目の幼児は善も悪も行っていないからである。

善も悪も行うことができない人間に、肉を廃棄する儀式が必要であるということは、「人間は生まれながらに罪人である」ということを明示する。

だから、幼児洗礼は同じ意味において、聖書的であり、重要な儀式なのである。

善も悪も知らない幼児ですら「清めの水」が必要だということを幼児洗礼は証言する。幼児洗礼は、人間の罪が行為罪だけではなく、生まれながらの存在そのものが罪である――存在罪――ということを証言するのである。

もし原罪がなければ、幼児割礼や幼児洗礼は無意味である。

聖書は、はっきりと「人間の根本的な問題は、先祖から受け継いだ契約違反者としての身分にある」ということを教えているのである。

幼児洗礼を否定する教えは、この聖書の根本的な主張を無視する謬説である。

 

 

2005年7月25日

 

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