エデンの園と山と律法


聖書(特に雅歌)において、妻の肉体はエデンの園を象徴している。

エデンの園は周りよりも高い山にあり、そこから全地を潤し、いのちをはぐくむ4つの川が流れ出ていたように、乳房は命と祝福の山であり、子宮は胎児を宿し、生み出す生命の泉である。

性交渉は、契約の中にある人間が受けられる祝福を表し、性欲は、人間の楽園回帰願望の象徴である。

結婚の祝福を受けられるのは、契約の中にある人間だけだった。結婚とは、この人類の契約的祝福を表現する重大な象徴である。

それゆえ、契約に基づかない性行為は厳しく禁じられているのである。

アダムとエバは神の契約を守る限りにおいて園の祝福にあずかることができた。

彼らが罪を犯した時に、彼らは園から追い出された。

しかし、神は同時に、人間にこの園への回復の道を啓示された。

それが、イエス・キリストを信じる者に与えられる祝福である。

イエス・キリストを信じる者は、神の御国に入り、永遠の祝福を受けつづける。

かつてイスラエルは、エデンの園の再現であった。そこは乳と密の流れる地であり、エルサレムは山であり、そこから全世界に向けて律法が発布される、とイザヤは預言している。全世界の人々は、律法を求めて世界中から集まる。

「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』それは、シオンからみおしえ(原語では『律法(トーラー)』)が出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」(イザヤ2・2-3)

ここから律法とは乳の祝福であることが分かる。

ディスペンセーショナリズムの影響によって、クリスチャンは律法を何かのろいを与えるものという印象を植え付けられているが、聖書はむしろ、エデンの園の祝福として描いている。

律法を持たないことは、砂漠・荒野の呪いである。

世界は、ヒューマニズム文明がもたらした無律法の混乱に飽き飽きして、ついに律法のもとに帰るだろう。

サタンは、「律法は我々を縛り付ける手かせ足かせである。律法から解放されることによって、我々は自由を得ることができ、そこから祝福の水を飲むことができる」と我々にささやいた。

人類はまんまとこの罠にはまって、祝福の水ではなく、砂漠の砂を飲まされてきた。

しかし、いずれ世界の諸民族は、律法が園の祝福であることを悟るようになるだろう。

モーセは山の上から律法を与えた。イザヤは「山」から「律法」が出ると述べた。イエスは山の上から御言葉を語られた。

ということは、当然、エデンの園の山から神がアダムに戒めを与えられたと推測できる。

園の禁令(善悪の木の実を食べるな)は、山の上から語られたのであろう。

しかし、この山はそこから水が流れる祝福の山でもあった。

律法と祝福を結びつける象徴は聖書の中に数多く存在する。

 

 

2005年1月2日

 

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