本当の聖書信仰は聖書を聖書によって解釈する原則を曲げない


あるディスペンセーショナリズムのサイトで、再建主義が聖書信仰ではないとあった。

笑止千万である。

聖書信仰でないのは、ディスペンセーショナリズムである。

彼らが聖書信仰と考えている預言解釈は、まったくの無根拠である。

ちょっとつっつけばボロを出す。

私は、かつて徹底的にディスペンセーショナリズムを研究したディスペンセーショナリストだったから、ディスペンセーショナリズムの弱点はよく知っている。

最大の弱点は、「聖書を聖書によって解釈する」という原則を放棄している点だ。

これは、致命的な欠陥である。

聖書は最高権威であり、何物もそれを超えないのであるから、聖書で分かりにくい箇所があれば、分かりやすい箇所をもとに解釈する以外にはない。

この原則を崩せば、聖書からヘーゲル主義だって導きだせる。ヘーゲルは、実際に聖書をもとに自分の哲学を説いた。

聖書から何かを言いたい場合、その他の箇所でそれと矛盾することが言われているならば、それを撤回する必要が大きい。

いかに世相や時代の流れを見て、そのように解釈したくなっても我慢が必要だ。

例えば、エルサレムの岩のドームというもと神殿があった場所の近くに、新しい神殿建設用資材が置かれているという。

これを聞いて、「あ、やっぱりエゼキエルの神殿は建設されるのだ」と解釈するならば、「私は神殿を壊して三日で建てます」というイエスの御言葉をどう解釈するのか、と尋ねられるだろう。

もう一度神殿が建設されるならば、動物犠牲も行って、「贖い」を成し遂げなければならなくなるだろう。

そうしたら、「一度限りの犠牲」であるイエス・キリストの十字架はどうなるのか。

こういった疑問がわんさか出てきたら、どうしたらよいかというと、神殿建設は聖書的ではないという結論を出すことだ。

そして、自分としては、この石作りの神殿建設は間違いだ、と結論することだ。

このような矛盾があるにもかかわらず、「いやぁ、エルサレムに神殿は建設される」と言うならば、そういう人は「聖書信仰」を自称してはならない。

それは、聖書信仰ではなく、「私信仰」である。

自分の主観を聖書よりも上に置く異端だ。

こういう御言葉に対する傲慢、私的解釈、偽預言は、永遠の刑罰に値する。

軽い罪ではないことを念頭におくべきだ。

 

 

2008年2月4日

 

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