なぜ聖書は正しいのか4


(1)
「創造論者の人と進化論について話したところ、最後に地獄に落ちるぞ」と脅されました、と言う進化論者がいた。

こちらは脅しているわけではない。

よくカルトが脱会者に向かって「地獄に落ちるぞ」と脅して脱会を思いとどまらせようとするが、我々はそのような意図はない。

我々カルビニストは、「救いは神によって決定されているのであり、人間は何もできない」と信じているから、(誤解などある程度の防止はできるが)棄教者を食い止めることは実質的に不可能である。

我々が「地獄」を持ち出す際に、それは、脱会を食い止めるためではなく、事実を述べているだけなのだ。

自然という圧倒的な証拠を前にして、神を一生の間拒み続けた人に残されているのは地獄だけだ。

どの組織でもそうだが、その組織の規則を守ることを拒むならば、追放以外にはない。

人間にとって「死」とは、「追放」である。

神が作られたこの世界からの。

頑固に神の主権を拒否し、この世界という組織の規則を破り続けるから追放されたのである。

どこに?

刑罰の場所に。

神に逆らって行ったすべての業のために刑罰を受けるために。

地獄には、2つの意味がある。

1.刑罰の場所
2.相続不能

1.刑場としての地獄は火が燃え盛るとても苦しい場所である。ラザロと金持ちのたとえにおいて、イエスは、「数滴の水で冷やすことを望む」場所として描いておられる。

2.この世界で獲得した一切のものを失うことになる。
金持ちが亡くなっても、何も持っていけない。

死ぬときに、全部置いていかねばならない。行動記録以外は。

一生の間に行った行動の記録だけが死後に残る。


また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。(黙示録20・12−13)

我々にはいのちの書がある。

そこに行ったことが書き記されている。

我々は行いに応じて裁かれる。

しかし、クリスチャンは、キリストによって刑罰がすでに済んでいるので裁かれない。

相続不能に陥ることもない。

クリスチャンは、生前行ったすべてのものを相続する。

それは永遠の相続である。

クリスチャンになることは、2重の祝福である。

1.刑罰にあわないこと。
2.永遠の相続にあずかること。

(2)
世界観は、人間理性では証明できない。

なぜならば、人間理性は、死後の命について証明できないから。

死後命があるかどうか人間は証明できない。

だから究極的に見て、世界観を選択することは信仰に基づく。

証明ではなく、信仰である。

キリスト教世界観を選択するか、それ以外を選択するか。

人間的レベルで見れば、どちらを取るかはまったくの信仰である。

しかし、神的レベルで見れば、それは十分に証明できる。

なぜか。

被造物は神を証明しているから。

被造物を見ることによって、人間は神を信じることができる。

自然界は、神の証拠である。

だから、神のレベルにおいて(つまり、神の全知のもとで見るならば)、人間は反論できない。人間は信じる以外にはない。

人間レベルにおいてと、神レベルにおいてでは事情が異なる。

神レベルにおいて証明されているのであるから、人間には弁解の余地はない。

なおも神を拒否するならば、その人は自ら地獄を選択したことになる。

つまり、問題は、最終的には誰が力を持っているかなのだ。

神が世界の所有者であるから、いくら「俺は、自然を見ても神を感じないので、証明にならない。」と言い張っても、聖書において「自然は神を証明する」と述べているから、彼の頭は踏みつけられる。

彼は永遠の地獄に投げ落とされる。

神に対して徹底的に発行する者は、滅び以外にはない。

 

 

2009年8月20日

 

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