我々の働きは無駄にならない


(1)
昨年12月末に自宅を訪問したアメリカ人夫妻の奥さんはユダヤ人である。

彼女曰く、「日本人はユダヤ人よりも福音に対して硬い」と。

たしかに、日本人は福音から遠い民族である。

サタンが築き上げてきた城砦があるような気がする。

しかし、聖書は、日本人はクリスチャンになると断言しているのだから、現実を見て悲観する必要はまったくない。

今後20年、30年のうちにすべてを変えてしまおう、などと言っているのではない。もしそうなら、夢想家、カルトと呼ばれても仕方がないだろう。

我々は「いつか」日本が福音化されると述べているのである。

神の計画の具体的な内容は我々には隠されている。

(2)
我々は自分の人生がどのようなもので、自分の能力がどのようなものであるかを知らない。

アメリカンドリームのような思想が教会成長学を通じてキリスト教の中に入り、ビリー・グラハムやパウロ・チョー・ヨンギのような「スーパースター」になることを目指す牧師や伝道師が増えた。

しかし、我々は、自分に与えられた賜物、能力で満足すべきである。

魚に生まれた者は魚以外にはなれず、鳥に生まれた者は鳥以外になれない。

魚がどんなに空を自由に飛ぶことを望んでも、神が魚にそのようなことを期待しておられないのだから、魚は魚として満足すべきである。

我々は、自分の能力や仕事「だけ」で世界をひっくり返すことを望んではならない。

我々は、神の計画の「一部」となることによって、世界をひっくり返すことを望むべきである。その一部がどのような重要性を持つかは、神の一存であって、我々が心配すべきことではない。

地方教会の牧師として召された人は、東京の中央の教会で教派の中心的立場に立つことを求めるべきではない。

もちろん、そのような召しを受けた場合にはそれに応じるべきだが、中央に出ることを何か「出世」と考えるのは世俗の考え方である。

シマウマがライオンになりたがるようなものである。

(3)
生物進化における「弱肉強食」なんて幻想である。もし強い者が残るのが進化の理ならば、生物世界はライオンだらけになるはずだ。

しかし、生物世界には、ライオンもいれば、シマウマもいる。

世界は強い者が生き残って、弱い者を駆逐していくことによって成り立っているのではなく、強い者は弱い者の数を調整し、自然界のバランスを保つために存在するのである。

蜘蛛がいなければ、世界の植物の多くが昆虫によって食い尽くされると聞いたことがある。

蜘蛛は昆虫を食べることによって、昆虫の数を制限しているのである。

生物は、昆虫であるよりも蜘蛛になるほうが適者なので、蜘蛛のように巣を作って捕虫出来るように進化している、というわけではないのである。

世界の歴史とは、能力があるものが勝って、生き残り、能力がないものが負けて、滅びるというような過程ではない。

これは進化論が描いた幻想である。

世界の歴史とは、神が様々な能力のものを創造され、それらをそれぞれの適切な持ち場に配置し、全体が一つの有機体として成長する過程である。

自分の夢をこのようなものに置かないと、無用の苦しみと徒労によって人生を無駄に使うことになる。

聖俗を問わず、スーパースターはスーパースターとして生まれたのである。スターになる人は、生まれながら華がある。

神は、各人に違った栄光を与えておられるのである。

(4)
我々は各自謙虚な考え方をすべきだ。

自分が自分でないものになろうとするのが愚かなように、自分に与えられた才能や能力、栄光に満足して、それらを利用して、御国の城壁の一つの石やレンガになるべきだ。

日本の伝道についても、韓国のような劇的な発展を期待すべきではない。

日本人は、韓国人とはまったく異なる民族である。韓国で通用したものが日本で通用するなどと考えてはならない。

神は、日本には独自の計画を用意しておられるのである。

確かに硬い石のような民族である。しかし、御言葉が砕くことができない石は存在しない。

神は、あらかじめ決定された世界の歴史のプロセスの中において、我々一人一人を特別な務めのために持ち場持ち場において用いておられるのである。

そして、我々の小さな働きを神は全体として調和させ、御国の建設のための重要な礎石としてくださるのである。

「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(1コリント15・58)

 

 

2005年1月14日

 

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