字義的解釈と象徴的解釈の区別41


<Q>
もう少し聞きたいのですが。姦淫についてですが。人間は肉体関係のみならずあらゆる性的欲求を断たなければならないのでしょうか。又、肉体関係以外に許されない事、許される事はなんでしょうか。

<A>
性的欲求自体が悪いのではなく、性的欲求を配偶者以外に抱くということが問題です。
十戒では、「他人のものを欲しがる」ということが禁止されています。
自分のものではないものを欲しがることには、売り物は含まれていません。
売り物は欲しい人に買ってもらうために陳列されているからです。
売り物ではない他人のものの場合、それが手に入れられないとわかったあとでも欲しがることが禁止されています。
戦争や侵略は貪欲の罪から起こります。

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」(ヤコブ4・1-2)

どれが許される罪で、どれが許されない罪か、というのは問題の的が違います。

人間は罪を犯すものです。ですから、人間は誰もがゲヘナに投げ込まれるに値するものです。

クリスチャンになっても同様に罪人です。

しかし、そのようなものでも悔い改めて立ち返ることによって、救いの中に留まることができます。

救いの中に留まることができないのは、○○の罪を犯したからということにあるのではなく、○○の罪を犯して何が悪い、と言って開き直ることです。

神様は、禁止されていることを、悔い改めながら、心を低くして、止めるように努力している人々に向かって、裁きを宣告されるような方ではありません。

しかし、今の教会のディスペンセーショナリズムの教えとは、「新約時代において律法は無効である。何をしても許される。」という無律法の教えなのです。そのため、聖書の教えが、特に旧約聖書の律法などが、ほとんど有名無実化しています。

今日のように、教会が世の中とほとんど変わらない状況になったとしても不思議ではありません。

クリスチャンはもはや「悔い改めながら心を低くして歩んでいる」というよりは、「これをしてもいいんだ。何が悪いのだ。」というような態度に変わっています。

こういった人々はもはやクリスチャンではなく、「正しくない者」です。

開き直る人々には救いはありません。

山上の説教においてイエスは、「心の貧しい者は幸いです。」「悲しむ者は幸いです。」と言っておられる。

これは、「自分の心が貧しく、自分では救いようのない者であると考えている人」のことであり、また、「自分が罪人であることを悲しんでいる人」のことです。

クリスチャンという名前がついている人の中で、救われる人と救われない人を分けているのは、「悔い改め」だけです。

 

 

2007年2月13日

 

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