イエスの内住は契約的内住である


<O様>

先日の「ワンネス」ニュースですが、先生の御記述に、
「イエスは、御霊において我々に内住されるということであって、イエスご自身は肉体をお持ちなのですから、我々に内住されるはずがありません。そのように記されている個所は一箇所も聖書にありません。御霊とイエスは契約的に一体ですから、御霊が我々のうちに内住されているならば、イエスも父も我々のうちに内住されると「契約的に」言えるかもしれませんが、御子は天において父の右に座しておられるとはっきり聖書に書いてあるのですから、我々のうちに「存在論的に(または実際に)」内住されるというのはおかしなことだと思います。」
> とございましたが、聖書に2箇所「中に」という聖句を見つけました。

(ローマ 8:10 )「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」
(コロサイ 1:27 )「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」

念のためキング・ジェームズとインターリニアーに当たってみましたがいずれも“in you”でした。

この“in you”はどのように解釈したら宜しいのでしょうか?「内住」ではなく、「臨在」でしょうか?初歩的な質問で誠に恐縮ですが、御教示宜しくお願い申し上げます。

<tomi>
このin youは、キリストが存在論的に内在していることを示していません。

キリストはあくまでも聖霊において契約的に内在しているのです。
もし「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら」が、「もしキリストが存在論的にあなたがたのうちにおられるなら」という意味であるならば、受肉したキリストが我々のうちにおられるということになります。なぜならば、キリストは死んで復活された際に、新しい体を取られたからです。


それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。 ・・・イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20・25-27)

聖書ははっきりと、イエスは肉体を再び取られた、と証言しています。ですから、もしイエスが我々のうちに存在論的に内住されているならば、イエスは我々の肉体の中にいらっしゃるということになりますが、こんなことは物理的に不可能です。それとも、「指を釘のところに差し入れ、手をそのわきに差し入れることが可能な」イエスが我々の内部にいらっしゃるのでしょうか???

聖書において「イエスが人々のうちにおられる」と述べられている個所は、「契約的内住」です。

つまり、三位一体の神様は契約的に一体であるがゆえに、聖霊が我々のうちに内住されているならば、父も子も内住したことになる、という意味です。それ以外にどのような解釈が可能なのでしょうか?

 

 

2006年4月11日

 

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