日曜日じゃないと礼拝できない?


<Q>
先生が書いた記事に

「イエス・キリストを信じる人はすでに安息の中に入っており、特定の日に休息と礼拝を限定する必要はありません。」

とありましたがこれは本当ですか?

それならば日曜礼拝をしなくてもいいのですか?

日曜日に働いてもいいのですか?

日本や韓国の教会は間違っているということでしょうか?

いったいどういうことでしょうか?

説明お願いします

<A>

それでは伺いますが、日曜日にどのような聖書的根拠があるのでしょうか。

日曜日に礼拝を守ることは、一つの便宜的な意味でやっていることであって、それが聖書に命令されていることである証拠はありません。

聖書に命令されているのは、「クリスチャンはともに集まり、礼拝をすること」だけです。

どの日を聖日にせよ、などという規定はまったくありません。

あるグループは、土曜日が安息日に定められているとして守っています。しかし、もし安息日を守るなら、どうして安息年を守らないのでしょうか。

旧約律法では、安息日だけではなく、7年に1年、50年に2年、まるまる休むことが定められています。

安息日の律法は、暦制度と関係していますから、イスラエルの当時利用していた暦制度を回復しなければならないのでしょうか。

農業祭も守るのでしょうか。収穫の初物を捧げる規定を遵守すべきなのでしょうか。

サラリーマンは八百屋で野菜を買って捧げるのでしょうか。

一年を丸々休むことが定められているならば、高炉はどうするのでしょうか。製鉄所の高炉は一回止めると再開が難しい。

当時の暦制度をそのまま適用するのはナンセンスです。

このような当時のユダヤに適用された民族的、地域的、時代的な戒めは、イエス・キリストによって、普遍化されたのです。

だから、パウロは、安息日の規定は、影であって、本体はイエス・キリストであると述べたのです。

「祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」(コロサイ2・16−17)

同じ影であるところの「動物犠牲」がイエス・キリストにおいて成就したのと同様に、安息日、安息年、祭り、・・・も、イエス・キリストにおいて成就したのです。

だから、宗教的義務としてこれらのものは無効であり、守る必要はまったくありません。

我々は、イエス・キリストにあって安息を得ます。罪を赦されて、神との平和の中に憩うことができる。

イエス・キリストを通じて得られる神と被造物との平和と調和。これが安息日の意味です。

だから、クリスチャンがパンを裂くため(つまり礼拝するため)に互いに集まるならば、その曜日はいつでもよいのです。

しかし、弟子たちは、「安息日が終わって、週の初めの日」に「パンを裂くために集まった」とあるので、日曜日が復活の記念でもあり、模範としてよい、ということなのです。

しかし、定められた法ではありません。

もしそうならば、別の箇所で明言されているはずです。

しかし、パウロは、これは法律ではなく、それぞれの考え方の域を出ないと述べています。

「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。」(ローマ14・5)

 

 

2009年7月28日

 

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