もう迷っている時間はない


心配性とか対人恐怖とかの本当の解決は、現代の精神医学にはない。

なぜならば、現代の精神医学は聖書に基づいていないからだ。

もし本当にこれらを治したいならば、聖書を信じなさい。これ以外に方法はまったくない。

確固とした信仰を作り上げる以外に、人間は不安や恐れから解放されることはない。

聖書の一箇所に対する不信は、聖書全体に対する不信につながる。

聖書を信じられなくなったら一体何を信じたらよいのか?

人間か?教祖か?牧師か?

そんなもの信じられるわけないじゃないか。自分自身を見ても分かるだろう。こんなにちゃらんぽらんで、いいかげんなものを信じられるか?

むなしいものに頼るな。人間に絶望しなさい。

「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。」(イザヤ2・22)

聖書を丸ごと信じられるかどうかは、不安から完全脱出できるかどうかを決定する。

クリスチャンでも心配性の人がいたら、彼の信仰の中身を見たらよい。

必ずと言っていいほど、自分の経験とか常識とかを頼りにし、聖書を生活全般の最高権威として尊重していないから。

「聖書はそう言うかもしれないが、私には別の考えがある」なんて言うクリスチャンは自信ありそうだが、他方でものすごい心配性である。

よく「〇〇さんは霊的な人です」とか評する人がいる。

霊的な人とは何か?

霊的な人とは「世俗的な考えや行動から離れて、聖書的な考えや行動が身についている人」のことを指す。

何かフワフワ浮いている人のことを言うのではない。

本当に霊的な人になるには、試練の中で徹底して鍛えられる以外にはない。

どん底を体験した人でなければ、世俗の垢にまみれて霊の世界がぜんぜん見えてない。

現在、クリスチャンの間において「霊的な」といわれる大衆伝道者は、まるで霊的ではない。

なぜならば、彼らに聖書の真理を示しても拒絶するからだ。彼らの行動は聖書にのっとっているというよりも、自分たちが作り出した手前味噌の教理に酔いしれているだけだ。

現代の世俗社会やキリスト教界が病んでいるのは、「聖書にどれだけ近いか」という基準を捨てたからである。

聖書の約束をしっかりと信じることができる人間がなぜ心配性になるだろうか。

聖書の教理をしっかりと信じている人間がなぜ「聖書を勉強すると暗くなります。大切なのは勉強ではなく、賛美することです!」などと言うだろうか。

人々は聖書を捨てて、自分勝手な基準を作りそれを守ることに汲々としている。

無駄だ。

まったく無駄だ。

人生は短い。そしてやるべきことがたくさんある。

もう迷っている時間はない。聖書にしがみつき、そこから離れないことだ。これ以外に道はない。

 

 

2005年8月7日

 

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