聖書的デモクラシー


(1)
私は、ゲイリー・ノースと同様に、聖書的デモクラシーというものを信じる。

ある人は、「聖書には、聖書に基づいて代表者を選挙で選ぶようなシステムを作れと書いてない」というが、

創世記1・28に「地を従えよ」とある以上、政治制度や選挙制度について我々は考える必要がある。

政治制度や選挙制度について考えずに、どうやって「地を従え」ることができるのだろうか?

「聖書には、政治制度や選挙制度について指示がない」という発言の背景には、地上統治の責任回避を勧める最近流行の終末思想があると思われる。

「地を従えよ」との人類に与えられた根本的な命令を無視するキリスト教は、明らかに非聖書的である。

(2)
私は、独裁制を支持しない。なぜならば、人間は罪人であるため、裁きが必要だから。

子供が自分の行動を親によって矯正される必要があるように、万人は罪人であり過ちを犯すものであるため、できるだけ矯正やチェックを受けるほうがよい。

しかし、歴史が示すとおり、独裁制では、支配者をチェックできる者が少ないため、彼のわがままが通り、被支配者が苦しむことになりやすい。

それゆえ、多くの人々の意見が反映され、為政者を正したり、廃位させることが容易であるような体制が必要だ。

デモクラシーはこれを可能にする一つの形であるが、しかし、世俗的デモクラシーのように、いかなる高等法もなく、選挙民の判断が最高権威となるような体制は間違いである。

多数派が望めば、ホモの結婚すら許容されることになれば、ソドムやゴモラのように、社会には早晩神の裁きが下る。

聖書によれば、社会において、人間が最高権威となるべきではない。社会の枠組みは、創造者なる神の御言葉によって形作られる必要がある。

こまごまとした法律は立法府において作ればよい。しかし、法律制定の大きな原則である憲法や基本法は、聖書に基づいて作成される必要がある。

また、憲法や基本法の作成だけではなく、議員や行政官の任命にも聖書の基準を適用すべきである。

なぜならば、いくら法律ができあがっていても、それを行使するのは人間であり、人間が正しくなければ正しい政治は実現できないから。

聖書は、「神の御心によって政治を行なえ」と繰り返して語っている。

歴代誌や列王記の王たちの行状を細かく取り上げているのは、そのためである。

律法によれば、指導者の罪は一般の人々の罪よりも重い(レビ4・22-26)。

ノンクリスチャンは、神の契約の中におらず、それゆえ、神の御心を行わない者であるから、聖書が定める為政者の条件には当てはまらない。

神は、神に従う人間、つまり、クリスチャンに王権をお与えになったのである(1ペテロ2・9、黙示録20・6)。

王権は、堕落する前のアダムに与えられた。神は、反逆する人々を洪水で滅ぼされ、その後、唯一人神に忠実だったノアに世界の支配権をお与えになった。

それゆえ、選挙民、議員や行政官の条件は、聖書信仰の教会に通い、陪餐会員であるクリスチャンでなければならない。

教会から戒規処分を受け、クリスチャンとしての資格を失っている契約違反者を為政者にしてはならない。

マタイ28・19-20において、イエス・キリストは、「世界のすべての国民を弟子とせよ」と命令された。

我々は、世界のすべての国の政治体制が、聖書に基づくものになり、国が神の御心にかなって統治されるようになることを目指すべきである。

この体制の実現にあたっては、暴力を用いてはならない。(*)


(*)
カナン侵攻は、聖書が示すように、イスラエルに侵略する権利があったからではなく、カナンに住む人々の悪行が積もりに積もって、神からの処刑命令が下されたからにほかならない。

「あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、「私が正しいから、主が私にこの地を得させてくださったのだ。」と言ってはならない。これらの国々が悪いために、主はあなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。
あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。」(申命記9・4-5)

 

 

2004年11月10日

 

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