三位一体と日本


キリスト教は、「一致」と「多様」を並立させる原理を持つ唯一の思想である。

創造者である神は、「一」であると同時に「三」である。

「一」が「三」に優越するわけでも、「三」が「一」に優越するわけでもない。

よく「一神教」という言葉で、「キリスト教徒もユダヤ教もイスラム教も同じだ。一の原理を社会に適用しようとするから、排他的になり、戦争が絶えないのだ。多神教のほうがずっといい。」という人がいるが、まったく分かっていない。

それならば、人間を神とする実質的な多神教徒の共産主義者がなぜ排他的だったか説明できないだろう。1億人を粛清したと言われる毛沢東は「神とは…人民のことである」と述べた。

一神論(ユニテリアン)も多神教も不完全である。一神論は多様性を軽視し、多神教は統一性を軽視する。どちらの原理に立っても、統一と多様を調和させることは不可能である。

キリスト教は、一致も多様性もどちらも尊重する。三位の神は一つの人格に収斂されるわけでも、三つの人格に分離されるのでもない。神において一も多も永遠である。

実は、日本の古来の思想も三位一体を主張している。日本の最も古い神道は三つにして一つの神を信じていた。

古事記における宇宙創造神、天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神は三位にして一人である。

「地天の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。この三柱の神は、みな独り神に成りまして、身を隠したまいき。」

三位一体を象徴するものが神社には数多く存在する。

木島坐天照御魂神社(蚕ノ社)には三つ鳥居があり、これは造化三神が一つであることを象徴している。
伊勢神宮は昔同じ社を三つずつ作った。
天河神社のお守りは三位一体を象徴する三角形をした鈴であり、「五十鈴」と呼ばれている。(一説に「五十」はギリシャ語でイエスを表す「イエースース」から来ていると言う。)
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r12-170.htm

一般に言われてきた、日本は八百万の神、つまり、多神教の国であるというのは誤解である。恐らく、日本は世界で最初の三位一体神を信じる国であった。

 

 

2004年4月19日

 

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