2種類の偶像


シュロスバーグ博士の『破壊すべき偶像』(Herbert Schlossberg, Idols for Destruction, (Nashville: Nelson, 1983))によれば、偶像は大まかに2種類に分類できるという。

それは、「歴史の偶像」と「自然の偶像」である。

(1)
歴史の偶像とは、人間の救いをもっぱら歴史の内部に求めることを言う。

つまり、歴史を超越して働かれる神ではなく、歴史の中に存在する要素に対してのみ救いを求めるのである。

「スペンサーの進化論(現在信奉者は稀である)にしろ、啓蒙主義の発展史観(これも稀である)にしろ、マルクス主義(それほど稀ではない)にしろ、西洋社会工学(このカルトの最も一般的な形態である)にしろ、これ[歴史という偶像]は、救いを歴史の諸制度の中にのみ求めるため、聖書が定義する偶像の条件を満たしている」(同上, p.13)

とくにヘーゲルからこの「歴史の神格化」が顕著になった。歴史は絶対精神の自己発展の過程と位置付けられたので、歴史の過程そのものが絶対であり、「聖書」となった。

時代(過去・現在・未来)や過程、制度、階級、傾向は崇拝され、基準とされた。

昔、共産主義者からよく耳にしたのは、「歴史とは不可逆的に共産主義社会に向かっており、資本主義に留まりつづけようとするブルジョア反動勢力は、歴史の必然的発展に対して反逆している」という考えだ。

「あなたの考えは反動的だ」とか「時代に逆行している」とか「こういう時代になっているから仕方がない」とか、そういった歴史を基準とする言葉がノンクリスチャンからだけではなく、クリスチャンの口からもよく聞かれる。

クリスチャンにとって、歴史は神ではない。それゆえ、時代の流れがどっちに向かっていようが関係ない。問題は、聖書が何を言っているかだ。

たとえば、現在、ニュースで伝えられるように、国際的世論は「死刑制度廃止」「同性愛の結婚賛成」の方向に向かっているが、クリスチャンはそのような方向は聖書に照らして間違っていると考えるので、何の気がねもなくこれらの考えにノーと言える。

いくら彼らが「時代の流れに逆行している。アナクロニズムだ。」と叫んでも、気にすることはない。聖書の教えに留まるために、我々はすすんで時代遅れと呼ばれよう。

私は、クリスチャンに対して聞きたい。

この世の中において、堕落していない完全なものとは何か?と。

「歴史」や「自然」なのか、それとも「聖書」なのか?

もちろん、ホンモノのクリスチャンは、後者と答えるだろう。
しかし、ニセモノのクリスチャンは、前者と答えるだろう。
ニセモノのクリスチャンはけっして自分の信仰を公然とは表明しない。「私たちも聖書だけが誤りのない神の基準だと考えますよ」という。

しかし、彼らがセオノミーを捨てて、自然法や歴史を基準として採用するときに、彼らは実質的に「自然」や「歴史」を堕落していないものと表明しているのであり、それゆえ、彼らは実質的には創世記の堕落の記事を信じていないのである。

神の御言葉である聖書だけが基準なのである。それ以外、いかなるものも基準にはならず、すべて聖書によってチェックされ、取捨選択されなければならない。

今日、最も教会においてはびこっている「歴史の偶像」は、ディスペンセーショナリズムである。

彼らは、この世界のありさま、歴史の流れを見て、それを「基準」として、ポスト・ミレの楽観主義を否定する。

つまり、「tomiさん、世界を見てください。私たちの周りを見てください。戦争とテロ、麻薬、道徳の退廃、・・・これらを見れば、これから世界は明らかに悪い方向に向かい、破滅に向かっているのは明らかじゃないですか!」と言う。

これは、目に見えるものに頼る偶像崇拝である。我々の五感も、歴史の流れも、思想的潮流も、絶対ではない。

我々は、聖書の基準によってこれらの誤謬を指摘し、聖書の約束のみに信頼すべきである。

聖書は、「世界のすべての国民がキリストの弟子となる」と宣言しているのだから、明るい未来だけを信じ、悲観的終末論を捨てるべきだ。

歴史は神ではない。歴史は絶対ではない。歴史は基準ではない。
歴史を基準として採用するすべての人間は偶像礼拝者である。

(2)
イスラエルの周辺民族が信じていたバアル神とは大地の豊穣をもたらす自然神であり、自然の偶像であった。

イスラエルの人々は、誘惑されて、この偶像を拝んだ。

人間は自然の偶像に弱い。台風や自然災害や旱魃などの巨大な自然の力を見、太陽や月や星、彗星の栄光を見ると、それらを神と拝むように誘惑される。

聖書の神は、「これらは私が創造したものだから、それらを拝んではならない。その上にいる私を拝みなさい」と命令された。

しかし、今日でも人間は、真の神を拝まずに、現象に現われた自然の威力を崇拝する。

唯物論や科学至上主義も一種の自然カルトである。

「自然以上のものは存在しない。だから、我々は自然の力のみによって世界を解釈する」と決めるこの立場は、世界の科学者を支配している。

創造を信じず、生物の偶然発現を教える進化論もこの一種である。

現代世界は、自然の偶像に支配されている。それゆえ、バアル崇拝と本質的に同じことを行っているのである。

クリスチャンは、自然も歴史も支配する神を信じているので、これらの現代思想に傾いてはならない。学校において子供が「自然がすべてだ。超自然などない。」と教えられているならば、きちんと聖書の立場を説明して軌道修正してあげなければならない。そうしないと、子供をバアルに捧げることになる。

(3)
歴史の偶像も自然の偶像もどちらも、「超越者を否定する」という誤謬から生まれた。聖書の神は、時間も空間も創造された超越神であり、それゆえ、この世界において神のもとで歴史と自然は調和しており、その間に対立などあるはずがない。

しかし、超越神を排除したヒューマニズムにおいて、歴史と自然の間には永遠の対立がある。

「相対立する偶像の間に続く闘争の中において、自然は歴史の敵である。歴史主義は、自然の支配に対する反動の一部として花開いた。」(同上、p.140)

この対立をゲーテは次の言葉で表現した。

「神は生きているもののうちに働かれるのであって、死んだ者のうちに働かれない。今成りつつある者、変わりつつある者のうちに働かれるのであって、すでに成った者や不変の者のうちにおいて働かれるのではない。それゆえ、同様に、理性(Vernunft)は、ただひたすら、成りつつある者、生きている者を通して、神になるべく奮闘しているのであり、それに対して、悟性(Verstand)は、すでに成った者、不変の者を利用しようと奮闘しているのである。」(同上、p. 140)

ここでゲーテは、歴史を「成りつつある者、変わりつつある者」と表現し、自然を「すでに成った者や不変の者」と表現している。

これは、古代ギリシャにおける安定に意味を求める者(パルメニデス)と変化に意味を求める者(ヘラクリトス)との間の古典的な対立の再演である。

ゲーテやヘーゲルの「歴史発展説」は、啓蒙主義以来続いた自然主義者の固定的世界観に「変化発展への希望という風穴」を開けたという意味において、当時の人々に新鮮な印象を与えた。

しかし、このHPにおいて何度も指摘したように、歴史発展説は、その後、自然主義・実証主義の科学者から「客観性・事実性」という面で猛烈な攻撃を受けることになり、「思弁的すぎる」として退けられた。

(4)
超越者なる神を信じない限り、このような歴史の偶像と自然の偶像のジレンマから人類は永遠に逃れることはできない。

つまり、自然の偶像に頼ると、「すでに成った者、不変の者」だけに信頼するので、変化や希望や未来を望めなくなる。

世俗的陰謀論者はこの罠にはまっている。世界の裏側の権力構造を知れば知るほど、一般市民の無力さが露呈される。影で世界を操る人間の富と権力は、あまりにも強大で、一般市民が何かを成しえるなど信じられない。

だから、陰謀論を学べば学ぶほど無力感と絶望感に襲われ、「結局、この世界はサタン的な人々に支配され、家畜化される運命なのだ」と信じる以外になくなる。

自然の法則がすべてであり、そこに逃げ道は存在しないのであれば、強者が勝利して弱者は負ける、という結末以外期待できない。

聖書の神に信頼すれば、神が悪の勢力を超自然的力で滅ぼすと信じることができるので、このような絶望に陥る必要はないが、歴史の偶像に頼ると、思弁的にならざるを得ない。

たとえ歴史発展論者が明るい未来を教えてくれたとしても、それが本当にそうなるかは不明である。マルクスは、「科学的唯物論的社会主義」を唱えたが、しかし、実際の歴史は資本主義から必然的に社会主義そして共産主義に移行したと証言していない。

もうすでに19世紀において、この歴史の偶像を崇拝する人々の多くは、楽観的歴史観を捨ててしまった。

それが歴史主義である。歴史主義者は、「歴史とは理性の自己発展運動である」などというヘーゲル主義者のようなオメデタイことは言わない。

彼らは、「歴史は流転する」と教える。つまり、「歴史とは、誕生、発展、衰退、死」を無限に繰り返す運動であると。

結局、共産主義が失敗し、歴史の偶像で残ったものは進化論だけである。人々は、進化論のパラダイムに基づいて、国の発展やその他の未来に期待しているが、進化が歴史的に事実だったという証拠がまるで見つからず、また、理論的に見て、進化論は破綻しているので、歴史の偶像が、人々に希望を与えるものとして生き残る可能性はもはやないと言えるだろう。

結論:

聖書的クリスチャンだけが、自然と歴史を調和させることができる。

聖書は、超越者なる神が自然も歴史も支配していると教える。自然も歴史も神の僕である。

だから、どちらも神の意志にしたがうので、人間は諦める必要がなく、聖書の約束を信じて、輝かしい未来を期待することができる。

 

 

2004年7月19日

 

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