聖書をいじることはタブーを犯すことだ


ダビンチ・コードの罪を甘く見てはならないのは、扱っているものが、人間の言葉ではなく、神の言葉だからだ。

神の言葉である聖書に対して疑いを抱かせ、人々に不信仰の種を蒔き、人々の目の前に障害物を置き、その結果、人々がイエス・キリストによって救われることを妨げるならば、それがどれだけ恐ろしい刑罰を招くか考えてみよう。

たとえば、松下電器で、松下幸之助の言葉をいじったらどうなるだろうか。慶応大学で、福沢諭吉の言葉を愚弄したらどうなるだろうか。

これらの社会において、創始者の言葉をいじることがタブーであるのと同じように、創造神の言葉である聖書をいじることは、人間にとってタブーなのである。

サタンですら、聖書の前では沈黙する。

聖書の言葉は、神の宣言・法であり、それは議論の対象にならない。神の言葉が宣言・法でなければ、では、何が最高権威か、という問題になる。

現代人は、デカルトとカント以来、「人間が証明したものが絶対である」と考えるくせがついているから、聖書までも自分のまな板の上にのせ、試験管の中に入れようとする。

神の言葉をまな板の上にのせ、試験管に入れた瞬間に、その人は「神を神の座から引き摺り下ろし、自分がそこに座った人」なのである。

もし神が神であるならば、神の言葉は「問答無用の宣言・法」であるはずだ。もし神が主権者であるならば、神の言うことを疑う権利のある人間は誰もいない。

だから、神の言葉を試す人間は、やってはならないことをやったのである。

松下電器で、社員が大声で「松下幸之助はうそつきだ!」と叫んだようなものである。

松下幸之助は人間だから、彼の刑罰は会社を首になるくらいだろう。

しかし、天地を創造され、人間を創造された神に対して、「おまえの言葉はウソだ」と叫んだ場合、これがどのようなことを意味しているか、どのような結果をもたらすか、理解できないわけではなかろう。

天に唾すれば、自分の顔にかかるのである。

聖書をいじる人間は、そのいじった行為の直接の被害をこうむる。

彼はタブーを破ったので、永遠の刑罰を受ける。

考えてみよう。

人生たかだか長くて80年である。この短い人生の中において、聖書をいじり、神を偽り者としたために、永遠の刑罰の判決を受けたとする。

この愚かな行為のゆえに、彼(または彼女)は、永遠に苦しむことになる。

80万年たっても、1千万年たっても、1億年たっても、永遠に地獄から出られない。

毎日耐えがたい炎熱で焼かれても、希望はまったくない。何年後に出られる可能性もまったくない。そこは永遠の孤独と苦痛の場所である。

たった80年の人生で行ったことのゆえに、永遠の刑罰を受けるなんてばからしいではないか。

キリストを信じ、神の救いを受入れよう。そうすれば、刑罰はキリストにおいて完結する。

そして、二度と、神の言葉をいじり、タブーを犯し、触れてはならないものを触れる罪を犯さないように注意しよう。

 

 

2006年5月23日

 

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