格差が広がると社会は不安定になるか?


累進課税に賛成する人々がよく持ち出す理由は、「格差が生じると社会が不安定になる」である。

これは、共産主義者や世界統一政府論者のもちだす理由だ。

世界統一政府論者グレンヴィル・クラークとルイス・ソーンはその著書(World Peace Through World Law, Harvard University Press, 1958)の中で、世界の経済格差を是正する必要性を説いた。その理由は、格差が不安定を呼ぶということだった。


六、世界の様々な地域の経済状態における大きな格差を縮小するために、効果的な世界機構を設立しなければならない。格差が大きいままだと、不安定と紛争につながるから。
(Dr. Gary North, Healer of the Nations, (Fort Worth, Texas: Dominion Press, 1987), p.95)

しかし、これが事実であるか誰もわからない。

財閥と庶民、地主と小作人の経済格差が大きかった戦前の日本を考えてみよう。

格差のゆえに不安定と紛争が頻発しただろうか。

「2・26事件があったではないか。彼らは地方農民の窮状を救うために立ち上がった。」という人がいるかもしれないが、あれは、共産主義者の煽動によった。

二・二六事件の首謀者である青年将校の村中孝次らは、革命的な国家社会主義者北一輝「日本改造法案大綱」(発禁)に影響を受けていた。

今安倍政権に対する批判は、地方切り捨て政策を取った小泉政治に対する反動という側面がある。

しかし、誤解してならないのは、小泉政治のミスは、けっして「格差拡大」にあったのではない。

問題は徹底した減税を実行しないまま、国への富の集中の政策を取りつづけ、しかも地方の既得権や公共投資を減らしたからだ。地方の疲弊を招いたのは、富の再配分や福祉を減らしたにもかかわらず、国だけに富を集中することを止めなかったからだ。

単純な例を考えよう。

ある学校で、成績が抜群によい生徒と抜群に悪い生徒に分かれることが学校の荒廃につながるだろうか。

オリンピックのトラック競技で、黒人が抜群の成績を収めているからといって、オリンピックがつまらなくなるだろうか。

正当な手段で利益を得る者が現れても社会はおかしくならない。

きちんと努力して得たものに対して人々は賞賛するのだ。

オリンピックが面白いのは、正当な努力をして勝利を勝ち取る人もいれば、負ける人もいるからだ。

相撲が面白いのは、勝つ人もいれば負ける人もいるからだ。

もし相撲が年功序列で全員が横綱になるシステムなら、一体誰が見たいと思うだろうか。

成績がよい生徒の点数を取り上げて、悪い生徒の点数に加える学校はむしろ荒廃する。頑張った人間がふてくされて勉強しなくなるだろう。

今学校が荒れて、いじめが多発する根源的理由は、子供たちに「結果の平等」を教え込んだからだ。

「全員同じ顔になれ」と教えることは、「妬みを奨励すること」である。子供達が飛びぬけた人間を許容できなくなっているのは、親や教師が、飛びぬけること、変わっていることを悪と考える悪しき平等主義を教え込んだからだ。

本当の平等主義とは、「ルールに差をつけない」ということにある。万人を同じ基準で評価することである。

すべての人に平等にチャンスを与えることである。

格差が生じて不満に思う人間は、悪い人間だ。オリンピックにおいて勝利者に対して妬みやっかみを覚え、足をひっぱる人間は「卑怯者」だ。

そんな卑怯者の卑劣な感情を肯定して社会のシステムを作ったから、社会が卑劣化したのだ。

正当な格差は、人々の心を蝕まない。

むしろ、格差解消こそ、社会を乱す悪なのだ。

 

 

2007年8月30日

 

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