格差がありすぎるとやばいのか?


(1)
「格差がありすぎるとやばい」という意見には納得できない。

僕は、イチローが何百億稼いでどんな生活していようが羨まない。

彼の努力と才能と機会がそのような収入を彼にもたらしたのだ。

僕にはそんなものなかったから仕方がない。

僕はそんなものすごい金持ちを見ても羨まない。

しかし、中国の官僚が年収5000万もらっていると聞いて腹が立つ。なぜなら、それなりの仕事をしていると思えないから。

大半が年収100万にも満たない社会においてどうして役人が5000万もらうのか。おかしい。

つまり、僕は、市場が決定したものなら許せるが、政治が決定したものは許せないということなのだ。

(2)
僕は、もし長嶋選手のグローブを持っているとして、これを1000万で買いたいという人がいれば、1000万で売る。

「え〜いくらなんでも儲けすぎじゃない?」と批判されても、平気だ。

なぜならば、買手がその金額を出すというのだから。

道徳的なうしろめたさはない。

僕は、需要と供給で価格が決定されるという原則を尊重する。

政治によってそこに税金をかぶせて「ぜいたく品には多く課税させていただく」というような政府による市場への恣意的な介入は大嫌いだ。

もう一つ例。

自分の友人に、ものすごいイケメンがいるとする。

たとえば、モコミチのような。とても同じ人間とは思えないような。

彼はそのため女にもてる。

じゃあ、僕は彼の人気を落とすために、悪い噂を流すだろうか。

そんなことをしても、自分は絶対に幸せになれないとわかっているからやらない。

人の優れた点をねたんでそれを引きずり落とすようなことをすれば自分が不幸になる。

外見から内面まで全部やばくなる。

「人を呪えば穴二つ」だ。

格差がどんなに激しくても、我慢するしかないのだ。

我慢しなくてよいのは、社会的矛盾である。

すでに述べたように、公僕であるはずの官僚が、庶民と著しく差のある給料をもらっているというのは許せない。

金を稼いでいるのは庶民だ。会社で言えば営業だ。営業部(民)が業務部(官)の給料の10分の1しかもらっていない会社って絶対につぶれる。

どの社会でも営業職はもっとも評価されるべきだ。

あと我慢しなくてよいのは、スタートラインに差をつけること。

オリンピックの100m走で、理由もわからずある選手だけ10m前にスタートラインがあれば文句がでるだろうし、競技そのものが面白くない。

競争は公平でなければならない。

また、競争ができないような環境も許せない。

万人が市場へに対して平等の参加資格があり、自分が稼いだお金を誰にも奪われないならば、その社会はいい社会なのだ。

たとえ貧富の差があったとしても。

なぜならば、貧困者が努力して上に上る道が開けていて、チャレンジできるから。

(3)
それが不正な手段で入手したのでない限り、格差はどのような差であっても受け入れるべき。

あまりにも差がありすぎても、自然の理として受け入れるべき。

この原則が破られると、世の中はまた「政府による所得の再分配」という利権だらけの矛盾した社会が到来する。

それは、自民と民主で実験して失敗したことが明らかになったのだ。

もう後ろを振り返ってはならないと思う。 .

 

 

2010年12月7日

 

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