主権者は誰か?


第1戒から第3戒まで契約の中心部である。

主権者に関する規定だ。

第1戒「わたしの前に他の神々を置くな」は、異なる主権者を置くなということだ。

主従関係の規定である。誰が主権者なのか。神か、それとも、自分か?

ヒューマニズムは、自分を神とする。学校教育は、ヒューマニズムなので、偶像教育なのだ。

今の教会が上から下にいたるまでことごとく偶像礼拝化したのは、クリスチャンになった後に、ちゃんとした教育が行われなかったためだ。

この傾向は何世代も続いているので、我々を指導した人々がすでに人間主体の教えに慣れている。

我々が自覚してそれを変えなければならない。

第2戒は、「形を作るな」ということだ。

神を自分のイメージに合わせて作り変えるな、と。

聖書のままの神を受け入れなければならない。つまり、ここで聖書信仰が規定されている。

聖書啓示を絶対としないキリスト教は、第2戒の違反である。自分の想像に合わせて聖書啓示をゆがめるから。

「聖書ではこうありますが、私はこう考えます。」と牧師や伝道師が言い出したら、もう追い出す以外にはない。

この罪は軽微な罪ではなく、免職に値する。

聖書信仰を持たない教職者を受け入れると教会は破壊される。

異なる教えが今日巧妙に教会に入ってきている。それは、リベラルやディスペンセーショナリズムなどといったはっきりとした形ではない。

正統派の形でやってくる。例えばフラー神学校の教会成長学だ。あの神学校は、「リベラルとの対話を尊重する」と宣言してから、実質的にリベラル化している。しかし、外面的には福音派としてやってくるため、福音派の人々は騙された。

教会はめちゃくちゃになった。一般企業の経営学を取り入れたため、各教会が会社のようになり、営業利益を出すことを至上命題とするような雰囲気ができた。

「この先生は百人教会を作った成功した牧師です」などといった紹介が頻繁に行われた。

聖書啓示から離れ、契約的思考を捨て、世俗の学問によって福音や神学のシステム全体が再編された。

ある牧師は、「日本人は、カリスマに弱い。教理の勉強なんかやるよりも、大集会を開いて心を高揚させるのがよい」と言っていた。

人が救われるなら、大衆煽動もよいと。

聖書研究や、教理の学びが軽視され、ひらすら伝道に駆り出された。

70年代80年代に土台が破壊された結果が今現れはじめている。

教会がどんどんカルト化している。

第3戒は「御名をみだりに唱えるな」は、神の利用を禁止している。

自分の利益のために神を利用することは、冒涜である。

自分の幸福のために神を振り回すことを何とも思っていない。

我々が神を振り回すのではなく、神が我々を振り回すのである。

神にはその権利がある。

人間が神を振り回している証拠は、選びの教理に対する拒絶である。

「え〜、生まれる前から救いが決定されているって?そんな神なら信じたくない」

人間のために神が存在すると教えられていたらこう考えるのも無理はない。

もう一つの証拠は、律法に対する拒絶である。

いかなる義務も背負いたくない。きまり、規則、そんなものから自由になりたい、と。

律法から自由になれば、人間の律法がやってくるのだ。

かえって逆に束縛される。

こういう基本的な理屈も理解できないのである。

いかに、教会ががたがたになっているか。

第1戒から第3戒まで、一貫して言われているのは、「主権者は誰か」という問題である。

我々は、神を主権者とした契約の中にいる。

だから、神を利用したり、自分のイメージに合わせて都合のよい像を作ることはできない。

いわゆる「聖会」「ヒーリング集会」と言われるものが汚れてしまったのは、人間のために神を利用する集会だからだ。

 

 

2008年8月29日

 

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