日猶同祖論問題とインターネットの情報発信


どの場合でも、問題は、自分がどれだけ批判する力があって、自分の目で教えを評価できるかだと思います。
信仰の成長は「正しいものと間違ったものを見分ける力」だと思います。

私は、日本古来からのものには、悪霊が強く作用していると思いますが、しかし、もともと日本にあったものは聖なるものではなかったかと思います。
つまり、悪霊に支配されていた文化をもともとの状態に戻して、日本という国が本来どこに向かうべきだったのかということを明らかにしたいと思います。

たとえば、鶴と亀というものが日本のいろいろなものに現れていますが、一体あれは何を表しているのか、と自問自答してみます。

籠神社は、伊勢神宮の元宮ですから、最初です。
伊勢神宮は、最後。

ということは、籠神社と伊勢神宮を合わせると「阿吽(あうん=初めと終わり)」になる。

籠神社の象徴は亀、伊勢神宮の象徴は鶴。

とすると、鶴と亀とは、阿吽を表す。初めと終わり。

仮に、本当に伊勢神宮の御神体が十字架であるとすれば、鶴と亀はイエス・キリストを象徴しているということになる。

しかし、これとて、本当にそうなのかは分かりません。

正しければ、これをバックアップする事実が現れるでしょう。そうでなければ、消えていくでしょう。

神が仮に日本がイエス・キリストの国であるということをお示しになる計画があるとすれば、これは一つのきっかけになるが、そういう意図がなければ消えていく。

しかし、ここで「そんなことあるはずないじゃないか。」と無根拠な結論を出してしまえば、それまでです。神が示してくださることを受け取ることは永遠にできなくなってしまう。

大きな発見には、小さな仮説の積み重ね、小さな思いつき、インスピレーションがはじめにあります。このインスピレーションを軽視しては、いつまでたっても常識の範囲内で留まってしまい、宝を得ることはできません。

日本の文物の中にちりばめられている要素を、ただ「そういうもの」として見るのか、そこに「大きな思想」が隠されているのか、今の段階では明らかでもないし、確立した学説でもない。

しかし、確立したものでなければ受け取りたくないというのであれば、インターネットの情報発信はほとんど無意味です。

インターネットの主な魅力は、大手メディアが扱わないマイナーな世界の知識を得られることと、不確実だが興味をそそる情報が得られることにあると思います。

私は、聖書の規定に触れるような情報は発信しません。聖書の教えと矛盾するものはすべて切り捨てます。しかし、聖書と矛盾しないものであれば、既存の常識にとらわれずに、きわめて柔軟に考えていくつもりです。

 

 

2005年5月30日

 

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