世間教3


ある宗教を、それが神に属するものであるか、それとも、サタンに属するものであるかを判別するよい方法は、その宗教が「世俗の権威を最高権威として引き合いに出しているかどうか」を見ることである。

たとえば、その教団のトップが首相や大統領や有名人などと対談をしたり、一緒に写真に映ることによって自分の権威を誇示しようとしていないか?

また、自分の教団の紹介に、高学歴の人々、有名大学卒などの肩書きを持つ人々、勲章授与者などを前面に出していないか?

また、そのトップがノーベル賞などの世俗の権威のある賞を欲しがっていないか?

もちろん、学位や学歴や勲章やノーベル賞そのものが悪いと言っているのではない。聖書では、「名誉」を良いものと評価している。

問題は、その教団がこういった世俗の権威を「第一に」求め、それに「依存」し、「この世の価値体系を基準にものを考えている」という意味において、「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」に従っているということにある。

クリスチャンにとって、学位や学歴、勲章、ノーベル賞は一つの価値判断材料であって、それが中心ではない。

「学歴などいらない」と「学歴がすべてだ」というどちらの極端も避けるべきだ。

オウムがまだ活動を開始しはじめた頃、彼らの宣伝パンフレットには、会員の紹介欄に、「○○大学卒」という肩書きがずらりと並んでいた。

こういった世俗的権威へのこだわりを見るだけで、すでにその教団がインチキであることは明らかだ。なぜならば、目指しているものが「世俗の階段を上ること」であることが明らかだから。

また逆に、「世俗を忌避する」という極端に陥り、「君大学に行って何になるんだね。そんなの止めて、伝道に集中しなさい」といって「献身」させたり、「カエサルのものはカエサルに」と言って、世俗の事柄を聖書を用いて評価することそのものを拒否するキリスト教団体も見てきた。

こういった団体は、正当な学問の成果を拒否するため自己満足に陥る。

我々が立つべきは、聖書を究極の判断基準としてもち、それにひたすら依存しながら、世俗の様々な制度や文化的成果を「選択的に」受け入れることである。

これは、成熟した冷静な判断力を必要とする。

世俗にべったりにならず、かといって世俗と隔絶もしない。このような微妙なバランスを保つことができなければ、正しく歩むことはできない。

世間にこびるのも、世間を忌避するのもどちらもカルトの特徴である。

 

 

2004年5月29日

 

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