日曜日じゃないと礼拝できない?2


日曜日を聖日と称するクリスチャンが多いが、新約時代において、ものそのものに聖俗の区別は存在しない。

旧約時代、律法において聖俗の区別が存在したのは、新約時代における「聖俗判定基準」を象徴的に示すためである。

たとえば、旧約時代において、食べてよいものと悪いものがあった。聖い動物と穢れた動物があった。

しかし、ペテロの夢の一件(使徒10章)でこの区別が撤廃されたことが明らかになった。

また、イエスは、「すべてのものは聖い」と断言された。


イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。(マルコ7・19)

パウロも、ものそのものに聖俗は存在しないと言った。

きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。(テトス1・15)

新約時代、新天新地において、万物は聖められたのである。

その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1・20)

万物はすでに十字架において「和解された」。

だから、ものそのものはすべて神と和解しており、ものそのもので神に嫌われることはない。

今日、我々は豚を食べても穢れることはない。

日曜日に何か仕事をして裁かれることもない。(ただし、安息日の規定は被造物のリズムに合致しているので、7日に1日休みを取ることによって健康と長寿が期待できる。)

万物はすでに聖別されているからである。

「しかし、じゃあすべてが聖いならば、みんな天国に行けるのか」という疑問が出てくるかもしれない。

新約時代における聖俗の基準は、「心」である。

神のために行うのか、神と無関係に行うのか、が基準だ。

先ほど引用したパウロの言葉を再度示す。

きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。(テトス1・15)

実は、新約時代になってかえって基準は厳しくなったのだ。

旧約時代ならば、ある特定のものを避ければよかった。しかし、「不信仰」な人は、どんなことをしてもすべて穢れることになった。

心一つで全部白になったり黒になったりする。

神中心ではない行動はことごとく穢れている。

神中心の行動はことごとく聖い。

パレスチナが聖地だとか、日曜日が聖日だとかそういった区別を新約時代に住む我々がするならば、我々は、新約時代の基準を捨てることになる。

それは新しい宗教の創造であり、偶像礼拝である。

 

 

2009年7月29日

 

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